■0602→0603
久しぶりに海を見た。
柔らかい潮風と薄い空の青。
広がる海は濃い青で。
気持ちがいい、と思った。
「手塚、こっちが入り口」
広い駐車場に車を止めると、乾は車から大きな荷物を下ろし軽がると肩にかけた。
二人分の荷物を一つにまとめたから、三泊分といってもそれなりの重さだろうに。
手塚は自分の最低限の身の回りのものだけが入ってる小さなバッグをひとつ持って乾の後を追った。
誕生日にちょっと遠出をしようか。
乾がそう言い出したのは1ヶ月ほど前。
以前、手塚が旅行に行こうと言ったのをずっと気にしていたらしい。
自身が望んだことでもあるし、勿論承諾した。
どこに行こうかと言う話になったとき、温泉にでもするかと乾が提案した。
手塚が風邪を引いた後中々体調が戻らなかったことや、本人も仕事の疲れを癒したいということを考慮してのことらしい。
それでいいと答えたら、乾は張り切って宿泊先を調べ始めた。
着いた所は老舗の温泉旅館。
建て替えたばかりだという豪奢な建物に一瞬面食らったが、乾が予約してあった部屋は別棟になっている旧館で、そちらはいかにも趣のある建物だった。
磨きぬかれた柱や床は、伝統的な日本家屋で育った手塚にはなじみのあるもので安心する。
通された部屋は少し高台にあるため、正面の窓からは海が一望できる。
思わず「綺麗だな」と言うと、乾も「すごいね」と感嘆の声を上げた。
中居の説明によると、この部屋が一番海が綺麗に見えるらしい。
それはきっと大袈裟な言葉ではないのだろう。
凪いだ海は真っ青で、水平線が白く光っている。
手塚が海に見とれている間に、乾はあれこれと部屋の説明を聞いていた。
それが一通り終わると中居はお茶を入れながら、自分達が兄弟なのかと尋ねてきた。
「いえ、中学時代からの友人です」
乾は愛想よく笑って答える。
「お二人とも独身でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうなんですよ。二人とも甲斐性がなくて」
乾は手塚を指差し、「そっちはバツイチ」
そして今度は自分を指差して「こっちは婚約者に逃げられたばかりの情けない状態で」
と笑うと、中居は「ご冗談でしょう?」とびっくりした顔をした。
「ほんとです」と真顔で言うと、あらまあと大袈裟な返事が返ってきた。
「きっとまた良いご縁がありますよ」
「だといいんですけどね」
乾はニコニコと笑い続ける。見てるこっちが恥ずかしい。
「ぜひ次にお越しのときは、奥様連れでいらして下さい」
と如才なく締めくくり、中居は部屋を出て行った。
「乾、あそこまで言わなくてもいいんじゃないか?」
「いいんだよ。あれくらいで。男二人で温泉旅行なんて一般的には変だろう?」
それは確かにそうかもしれないが、離婚歴まで言うことはないんじゃないかと思う。
「夕食までは時間がある。どうする?海のほうまで降りてみるか」
「俺は構わないが、お前疲れてるだろう?ずっと運転しっぱなしだったんだから」
「そんなことないよ」
乾は笑っているが、家を出てから約5時間。途中で何度か休憩をとったとはいえ、乾ひとりがずっとハンドルを握っていた。
手塚が「代わる」と言っても、任せろといって運転席から動かない。しょうがないのでそのままにしていたが、疲れていないわけがない。
結局海を見に行くのは明日の楽しみということにして、今日のところはゆっくり過ごすことにする。
この旅館の売りの中に立派な日本庭園と小さいギャラリーというのがあるそうで、それを見に行くことで手を打った。
庭に出ると、弱い風が吹いていた。微かに潮の香りもする。
世界各地を飛び回って、色んな海を見てきたが自分が好きなのはやはりこの国だと改めて思い知らされる。
少し前を歩く乾を目で追った。
変な奴だと思う。
普段の乾は、人工的な空間が似合っているように見える。
熱い物よりは冷たいも物。
色とりどりの物よりは、色彩の無い物。
無機質で硬質なイメージが乾自身に近いのに。
だが、今いる手入れの行き届いた庭木や控えめな風情で咲く和の花の色が驚くほど似合っている。
なんていったらいいのだろう。
どんな場所や空間であろうとも、ずっと前からそこにいたように馴染んでしまう。
そんな雰囲気が乾にはある。
逆に自分はどこにいても異質な気がしていた。
乾とは逆で、どんな場所にいても馴染めていないんじゃないかと思っていた。
唯一、乾の傍だけが何の違和感もなく自分が身を置ける場所だ。
「何?」
乾は振り向かずに言った。
「さっきからずっと俺を見てない?」
「どうしてそう思う」
「手塚の視線は独特だからすぐわかる」
くるりと振り向く乾は、薄く笑っていた。
嫌な奴だと、手塚は息を吐いた。
部屋に戻っても夕食まではまだ時間がある。
「風呂入っちゃえば?この部屋、専用の露天と室内の風呂と二つついてるからどっちでも好きなときに入れるよ」
手塚、説明聞いてなかったでしょ?と乾は笑う。
「お前は?」
「お先にどうぞ。俺はあとでいい」
他にすることもないし、言われた通りにすることにした。
とりあえず室内の風呂を選んだら、足を踏み入れたとたん檜のいい香りがした。
やや白濁した湯はあまり熱すぎず心地良い。
あまり長湯せずに早めに上がり、浴衣に袖を通した。
部屋に戻り、「待たせな」と声をかけても返事が帰ってこなかった。
乾は大きな窓の手前にある椅子に座ったまま眠っていた。
―やっぱり疲れていたんじゃないか
誕生日を挟んで4連休を取るため、乾はここのところかなり無理をしていたのを手塚は知っている。だから運転を代わると言ったのに。
乾は乾で、手塚の風邪が意外と長引いたのを気にしていた。
温泉に行こうなどと言い出したのは、自分を気遣っての事だ。
そのために乾は無理をする。そんなことをするなと言っても、聞く耳を持たないのが困る。
気持ち良さそうに眠る乾の顔を見ながら、「帰りは俺が運転する」と絶対言ってやろうと手塚は思っていた。
夕食は豪華と言っていいものだった。品数が多いのはいいけれど、とてもじゃないが食べ切れる量ではない。あまり行儀のいいことではないが、手塚はいくつかの料理を残してしまった。
それを見た乾が言う。
「昔から、手塚は運動している割に食が細かったな」
「そんなことはないと思うが」
「いや、当時から食べないなあと思ってた。桃あたりの半分も食べなかったんじゃないか」
「桃城と比べるな」
少しの間、懐かしい話が続いた。
今思えば一番純粋にテニスを楽しんでいたのはあの頃だったのかもしれない。
その時期をともに過ごしたひとりがたった今目の前にいるのだ。
遠い日々を懐かしむというより、まだくっきりと鮮やかに蘇る大切な時間。
それを乾と共有していることが素直に嬉しいと手塚には思えた。
話が途切れ、乾は「よし」と言いながら立ち上がった。
「この部屋自慢の露天風呂ってのに入ってみようか?」
「いいんじゃないか?今度はお前が先に行け」
乾はくすりと笑う。
「お前が先に、じゃないって。一緒に入ろうよ」
「断わる」
「どうして?」
さすがにこう付き合いが長いと、いくら自分でも乾の思惑くらいは予想がつく。手塚はニヤニヤ笑う乾に一言断わっておく。
「風呂ぐらいゆっくり落ち着いて入りたいからな」
「そんなの今日じゃなくたっていいじゃないか」
乾は中々引き下がらない。
「一緒に入るために、わざわざこの部屋を選んだ俺の立場は?」
「知るか」
「まあ、いいから付き合いなさい。誕生日の前祝ってことで」
ここで誕生日を持ち出されると、ちょっと詰まる。
今回の旅行費用は全額乾が出している。
誕生祝いなんだから自分に払わせろと散々主張したのだが、これは手塚へのお礼だからと言って聞き入れてはくれなかった。
そのせいもあって「前祝」と言われてしまうと断りきれない。
仕方なく「わかった」とだけ言って手塚も立ち上がった。
「…もう少し楽しそうにして欲しいなあ」
と乾は贅沢を言うが、それはこの際却下しておいた。
自慢というだけあって、露天風呂は予想以上に立派なものだった。
決して大きくは無いが、磨き込まれた石で組まれていてとても綺麗だ。
夜空を仰ぐと満点の星が見え、爽快な気分になる。
眼鏡を外してきたので、鮮明ではないが。
湯の温度はやや低め。やはり白濁していて微かに塩分を含んだような匂いがする。
乾から少し離れたところに身体を沈め、手塚は天を仰いだ。
乾も同じように身体を浸す。
「お、ちょっと温め?」
「だな」
「でも気持ちがいい。こういうときに、日本人でよかったって思うね」
「まあな」
多少大袈裟ではあるが、それは確かにそう思う。
「手塚は、なんでそんなに俺から離れたところにいるのかな」
「言わずもがな、じゃないか?」
そう応えると、乾はくすっと笑った。
眼鏡がないからはっきりとは見えないが、おそらくそうだろう。
「やろうよ」
言い出す内容には予想がついていたが、使う言葉は予想外だ。
「いきなりか」
「わかりやすくていいだろう?」
乾は悪びれもせず言ってのける。
「で?やらないの?」
「当たり前だ」
「どうして」
「のぼせる」
「温いし、空気が涼しいから平気だよ」
乾は湯で肩を濡らしながら眼鏡のない顔で笑っている。
「久しぶりにやるのが、ここってのがいいじゃない」
何がいいんだか、と手塚は呆れた。
確かにここしばらく乾とやっていない。それは本当だ。
風邪を引いてしばらく自宅に戻っていたり、乾の残業が続いていたりしたから。
だからと言って、ここでやる理由にはならないと思うのだが。
「外でなんか出来ない」
そう言っても乾は全然引く気配はない。
「平気だよ。ここは完全にプライバシーが守られてる。だから、選んだんだ」
乾が少しずつ近づいてくる。
「来るな」
睨んでも、乾は笑っている。
「行きます」
乾が腕を伸ばして、手塚の腕を掴もうとする。
「触るな」
その手を払おうとすると、くくっと低い声で笑う。
「触ります」
二の腕を濡れた手に捕まれた。
抵抗する間も無く、そのまま腕を引かれて軽く肩を抱かれる。
こんな風に裸の胸を合わせるのも久しぶりだったので、それだけでどきりとした。
それから、乾は顎に手をかけ上を向かせると唇をそっと重ねてきた。
悔しいが、気持ちが良かった。
目を閉じて身体を預けると水の流れる音だけが聞こえる。
乾の言う通り時々涼しい風が吹いて、火照りそうな頬を少し冷やしてくれる。
乾の掌が湯に沈んだ身体を撫で上げていく。
腰から背中、そして胸へと。
ざわ、と身体中が反応する。
乾は一旦唇を離し、手塚の首筋に押し当て滑らせていく。
耳のすぐ後ろを舌先で舐めると、「このお湯、塩気がある」と言ってくすくす笑った。
こんなときにふざけたことを、と思ったがそれが乾らしくてつい自分も笑ってしまった。
「続けていいみたいだね」 「もういい。…好きにしろ」
乾は目を細めて微笑むと、また深いキスをした。
柔らかい舌が入り込み、口の中をまさぐられる。
それだけでもう、身体から力が抜けた。
後は乾に任せるしかなかった。
言われるままに、磨き込まれた縁の岩に手をかけ身体を支えると、乾が後ろから入ってきた。
抜き差しを繰り返され、強く突き上げられ、何度も声を上げた。
恥ずかしがる暇もないほど、身体が敏感に応えてしまう。
全身を濡らしながらするのが、こんなに気持ちがいいと思っていなかった。
その上、抱かれること自体が久しぶりだから尚更のこと。
身体中至るところを触れられて、奥を突かれて、身体の外側も内側も激しく波立つように感じてしまう。
「手塚」と名前を呼ばれた。
次の瞬間ひときわ強く差し込まれ、手塚の背中が大きく反り返りそのまま精を吐いた。
そして、手塚同様に達した乾が、自分の中を満たしていくのを感じていた。
殆ど乾に抱えられるように部屋に戻り、すでに敷かれていた布団の上に倒れこむ。
さすがに温いとはいえ、湯の中での行為はかなり疲れる。
乾は手塚を抱き起こすと、冷たい水の入ったグラスを持たせる。
それを飲み干すと、身体の内側が冷えた感じがして少し楽になった。
「疲れた?」
浴衣を着た乾が、少し笑って自分を見る。
「…これじゃ何のために温泉に入ったのか、わからない」
「やるため、じゃないか?」
思わず睨み返すと、乾はくつくつと笑いながらまた手塚を寝かせてくれた。
乾は湿った手塚の髪を撫でる。
乾の手は、こんなときにはとても優しく動く。
心地よさに目を閉じると、そのまま眠ってしまいそうだ。
だが、今はまだ寝てはいけない。
「…乾。今何時だ?]
「んーと、11時45分28秒」
良かった。まだ過ぎていない。
「悪いが、俺のバッグを取って貰えるか」
乾が持ってきてくれた荷物から、綺麗に包装された箱をひとつ取り出す。
「お前に」
そう言って箱を手渡す。
「俺に?」
「そうだ」
乾はゆっくりと微笑む。
「ありがとう。開けていいか」
手塚が頷くのを確認してから、乾は箱を開けた。
「あ、腕時計だ」
乾は箱から慎重にそれを取り出す。
全体は抑えた銀色で文字盤は黒。インデックスは白で、針は細め。
長方形のデザインが気に入って選んだものだ。
「これ、手塚の持ってるのと同じシリーズ?」
「そうだ」
さすがに乾らしい。
パッと見はわざと違うデザインのものを選んだのにすぐに気づいたのか。
手塚が普段付けている物は、ケースが小降りのラウンド型でベルトが黒い革になっている。
見た目も性能も自分が使ってみて満足できたので同じ物を、と思ったのだ。
「シックですごくいいね。ありがとう」
「気に入って貰えたか」
「うん。とても。大事にするよ。…今つけてみていい?」
「日付が変わるまで待て」
「お預け?」
乾は悪戯な表情で小さく笑う。
「すぐだろう」
「まあね」
手塚は起こしていた身体をもう一度倒して、横になる。
「聞いていい?」
乾は手塚を覗き込むようにする。
「なんだ」
「どうして、腕時計にしてくれたのかな」
「実用的でいいかと思ったんだが」
「腕時計を贈るときって、普通は意味があるんだけどね」
知らない?と乾は唇の端を上げた。
「どういう意味だ」
「二人で同じ時を刻もう、って意味だよ」
「…知らなかった」
「知らないじゃ、済まされない」
乾は布団の上に片手をつくと、そのまま手塚に覆い被さるようにする。
「これは確かに受け取ったよ。贈られた意味ごとね」
乾の大きな手の中には、手塚の贈った腕時計が収まっている。
それを手塚に見えるようにして、乾は囁くように言った。
「これは手塚が俺にプロポーズしたようなものだよ」
口許は穏やかに微笑んでいるように見えるが、深い色をした目は笑っていない。
「そう、受け取ってもいい」
「後悔しない?」
「誰が?」
そう応えると、眼鏡の奥の瞳が和らいだ。
乾の顔がゆっくり近づいてくる。
「乾。日付が変わるまであとどれくらい時間がある?」
贈ったばかりの時計の針を、乾は確かめた。
「1分、くらいだ」
「長い1分だな」
と笑うと、乾は自分の身体を肘で支え、空いた手で手塚の頬にふれた。
「こうしていれば、あっという間だよ」
乾の唇が、手塚の唇を塞いだ。
確かにこうして日付が変わるのを待つのが、今は一番良いのだろう。
残り約50秒。
同じ時を刻み始めた時計の音が、手塚の耳のすぐ傍から聞こえていた。
2004.0717
終わりました!なんとか最終日に間に合いました。ああ、ドキドキした(笑)
誕生日に関わるアンケートで、大人乾塚の過ごし方は票が割れました。
温泉旅行、ホテルでディナー(そのまま宿泊)、乾のお部屋で二人静に。そういうお答えがありました。ギリギリまでホテルで夜景を見ながら、にしようかと思ったんですが私には書けなかった!
それで、温泉えっちにしたわけです。今回はあまり克明な描写は避けました(笑)。
アンケート結果は近々結果をまとめてご報告しますね。ご協力くださいましてありがとうございます。とても楽しい一ヶ月半でした。
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