■GOOD NIGHT
浴室の鏡に映った自分の左胸に、小さな赤い点があった。
それは間違いなく悪戯好きなあの男がつけた数十分前の情事の名残。



「乾、交代だ。シャワー使っていいぞ」
手塚はバスローブを羽織って、
スタンドだけがつけられている部屋に戻ってきた。
ベッドの端に腰をかけ、もう一度同じ言葉をかけようとしたが
乾は既に静かな寝息を立てていた。

寝てしまったか。

手塚は声を掛けるのを諦め、
首にかけていたタオルで顎をつたう水滴を拭った。

疲れているのだろうかと、
規則正しい呼吸をする男の顔を見下ろすと、
疲労の色は薄く、心地よさそうな表情をしていた。
手塚は安心してそのまま乾の顔を見つめていた。

いつからだっただろう。
乾が自分に寝顔を見せるようになったのは。
学生時代は、滅多な事で自分の前で寝てしまうことはなかったのに。
自分ばかりがいつも乾に寝顔を見られていることが
悔しいような気がしたものだった。

今、こうして静かに眠る乾の顔を見ていると
あの頃のこの男もこんな気持ちでいたのだろうかと
ふと思う。

暖かくて、
穏やかで
それでいて、どこか切ないような。

ただ相手の寝顔を見ることだけで
こんな思いが生まれる自分に少し驚く。

乾はベッドのやや壁際で、片腕を伸ばした姿勢で眠っていた。
自分の腕の中に戻ることを予想して、手塚一人分の隙間をあけて待っている。
例え意識が無くても乾はそうしてしまうのか。

馬鹿だな、お前は。

手塚はくすりと笑ってから、乾の額に手を置きそっと前髪を上げた。
そこにはよく注意して見ないとわからないほど小さな古傷が残っている。

乾がまだ幼い頃に、勢いよく転んでつけた傷だと
本人が笑いながら教えてくれたことがあった。
そう、あのときも確かベッドの中で。

思い出すと、胸の奥が少しだけざわめく。

額に置いていた手を滑らせ、頬を包んでみる。
汗が引いてひんやりとした感触が手に馴染む。

乾は手塚の肌に触れるのが好きだ。
シルクみたいだなどと歯の浮くようなことを平気で口にする。
それがいまだに本人には理解できないけれど、
肌触りで言うなら、手塚にとっては乾の肌のほうが気持ちがいい。
乾の言い方を真似するなら、陶器のようだと思う。
滑らかで艶やかで、掌に吸い付くようで。

顔だってそうだ。
乾はことあるごとに「手塚の顔が好きだ」と言う。
乾の口から、何度綺麗だと言われたかわからない。
自分にはあまり顔の美醜なんて理解できない。

だが、乾の顔は綺麗だと思う。
少し線の細い自分の顔立ちよりずっと精悍で、
どこにもゆがみの無い左右対称の顔をしているといつも思っていた。

顔だけでなく身体も同じだ。
テニスだけをしていた頃と、今の乾は違う。
時間を見つけてはジムに通って鍛えてるというだけあって、
バランスのいい筋肉がきっちりと全身についている。
もともとのしなやかさに更に拍車がかかり、
ボクサーのような好戦的な体つきをしている。

初めてこの部屋で乾に抱かれたとき、
その変化に少なからず驚いたものだった。

こうして改めて乾の眠る姿を見ていると、少し不思議な気がする。

目の前で静かに眠り続けるこの男が
ついさっき、ほんの数十分前に自分と身体を重ねていたのか。

今は力を抜いて伸ばされている腕が
自分の身体を力いっぱい抱きしめ、

穏やかな寝息を立てている唇が
熱い吐息を吐き出し、

ゆったりと上下する胸は
激しい動悸を刻んで。

それがまるで嘘みたいだ。
今の乾からは遠すぎて。


でも、覚えている。
繋がった場所にはまだ熱が残っているし、
この身体につけられた赤い点が、
夢ではなかったことの何よりの証だ。



ふいに
「…ん」と乾が小さな声を洩らした。

反射的に手を引くと、乾は少し眩しそうな様子で顔を背けたが
またすぐに元のリズムで寝息を立て始めた。

どきりとした。
それと同時に自分の顔が赤くなるのがわかった。

真夜中に1人、乾の寝顔を見ながら何を考えていたのか。
こんなことを乾に知られたら。

乾が目を覚まさなくて良かったと手塚は息を吐いた。
そんな自分がちょっとだけおかしくて苦笑する。

乾が本当に起きないうちに自分も寝てしまおう。
そう思い、スタンドに手を伸ばし、スイッチを消そうとしたが、
そこで手が止まった。

消すのをやめ、明るさと角度を調節し乾に直接光が当たらないようにする。
それからもう一度、乾の顔を見下ろした。

今日は少しも瞼が重くなってこない。
久々に眠れない夜になりそうだ。
不眠症は、せっかく乾が治してくれたはずだったのに。

だが、しばらく乾の顔を眺めているうちに気づいた。

今夜は眠れないのではなく、
眠りたくないのだということに。
2004.4.23
「E計画跡地」から。
情事の後です。手塚がシャワーを浴びてるうちに乾は寝ちゃったの。で、寝顔を見てたら、さっきのえっちを思い出してちょっとドキドキしちゃったのですね。
…かわいいなあ、手塚。(自分で書いて置いて何を言うか)

これはオフリミの番外編みたいなものです。大人乾塚はちょっと手塚の方が乾にメロメロかも(笑)

タイトルは矢野顕子さんの名曲から。ホントにすごくいい曲。大好き。