■Dip in the pool
初めて触れたときの肌の感触を、今でもはっきりと覚えている。


思い出してみれば、最初から乾と膚を合わせるのは気持ちが良かった。
何の疑問も抵抗もなくあの腕に抱かれた。
自分以外の誰かの鼓動が直に胸に伝わることに、少し驚きはしたけれど。

他人に身体を抱きしめられたのは、恐らく乾が初めてだ。
小さな子供でなくなってからは、家族とでさえそうしたことはない。

好きだと言われて、その言葉に頷いて、ゆっくりと近づいた腕に引き寄せられて。
あとはそのまま自分を預けた。
不思議なくらい心地よかった。
そのときようやく自分がどれくらい乾が好きなのか気づいたような気がした。

ただ抱きしめられるのではなく、身体を重ねるようになってからもやっぱり乾の腕の中は気持ちのいい場所だった。
乾にそう言うと、「身体の相性がいいのかもね」と笑っていたことを思い出す。
品の無い表現だが、それはあながち冗談ではなかったのかもしれない。

時が経ち、互いの距離がどうしようもないくらい離れてしまってから乾以外と寝るようになった。
それを後ろめたいと思うほど子供ではなかったし、そうしなければいつまでも引き摺りそうな気がしたのも確かだ。

だが、結局乾と同じような居心地の良さを感じたことは一度も無かった。
それは乾が始めての相手で、それに慣れてしまったからということではないように思う。
身体はちゃんと反応するし、一度も楽しんだことがないといえば嘘になる。
でも違う。
男は確かに即物的な生き物ではあるけれど、それでも完全に心と身体を切り離せはしない。

それを実感したのは、また乾の隣りに戻ってきてからだ。
「相性がいい」という言葉を証明するかのように、乾に抱かれるのは気持ちがいいことだった。
心の底から好きな相手と身体を繋ぐ快感は、他と比べるまでもなく圧倒的だった。

自分はどちらかといえばストイックな人間だと見られている節があり、自分でもそれほど性的な欲求は強い方ではないと思っていた。
今となってはそれもどうもあやしい気がする。

再び乾と共に過ごすようになってから、困ったことがひとつある。
何の脈絡も無く場所も時間もお構いなしに、突然自分の身体が乾から与えられた快感をふいに思い出すことがあるのだ。

今だってそうだ。
程ほどに込み合った電車のつり革につかまりながら、延々こんなことを考えてる自分はどうかしていると思う。
思い出すきっかけは些細なこと。
左手でつり革につかまったとき、シャツの右の肩が少し下がった。そのとき空いた自分の襟元が少し気に掛かった。
何が気になったのか、一瞬自分でも理由が良くわからなかったのだが少しして気づいた。

今、自分の右の鎖骨のあたりには乾がつけた赤い斑点がある。
それを意識したとたん、思い出してしまった。
絡まるようにベッドに倒れこみ、裸の胸を乾の舌が這ったこと。
指の感触、身体の重さ、そんなことが一瞬で蘇る。

自分が何を考えているかなど、回りの人間に知られるはずは無いのだが、それでもや張り恥ずかしい。
それでいて考えることが止まらない。

こんなことをあいつが知ったら、一体どんな顔で笑うのかと思うと腹立たしい。
そのときの意地の悪い表情の予想をしながら電車を降りた。



7時を少し回った頃に乾が帰ってきた。
「おかえり」と出迎えると、「ただいま」と返された。
それはもう当たり前の会話になっている。
逆に乾のいるときにこの部屋に来ると「おかえり」と言われる。
それに「ただいま」ということにも何の違和感も無い。
ここは自分がいていい場所だと思っているから。

「すぐ食事にするか?」
「いや、まだいい。先にシャワーだけ浴びてくるよ。今日は結構暑かった」
スーツを脱いでバスルームに向かう乾の背中を見送ってから、とりあえず夕食の準備だけはしようかとキッチンに立つ。

サラダでも作ろうと冷蔵庫からトマトを出し、水道の水で洗い始めた。
その水しぶきを見てふと思う。

今、乾の背中をシャワーから溢れる湯が濡らしているのか。

しっかりとした骨格の上に綺麗についた筋肉。
それを覆う滑らかな膚。
その上を無数の水の流れが伝っていく。
そんな光景を想像すると、ぞくりとする。
昼間におかしなことを考えたせいだろうか。
蛇口を閉めて、水を止める。
それでも耳の中では流れる水の音がし続けていた。


シャワーを終えて、髪をガシガシと拭きながら乾が戻ってきた。
上半身は裸で、背中には水滴が浮かんでいた。
いかにもさっぱりとした顔もまだ濡れていて、眼鏡はかけずに手にもったままだ。

頭からタオルをかぶって状態で冷蔵庫を開け、乾はミネラルウォーターのボトルを取り出し一気にそれを喉に流し込む。
顎が上がり、喉から胸にかけての線がはっきり見えた。

「今日は忙しかったか?」
「そうでもないよ」
乾が口を開いたときには、ボトルはもう空になっていた。

「明日は忙しくなりそうか」
「いや、明日もきっと今日くらいじゃないかな」
乾は空になったボトルをテーブルの上に置いてから眼鏡をかけた。
「なんで?明日何かあるのか?」
と聞いた。

「明日じゃない。今だ」
「何?」
「やりたい」

乾が一瞬呆気にとられたような顔になり、それから少しずつ唇の端を引き上げた。
「えらくストレートだな」
「悪いか?」
「とんでもない。好きだよ、そういうの」
にっこりと笑いながら乾が近づいてくる。
「今すぐでいいんだよね?」
「そうだ」と答えると、すぐに唇が塞がれた。



ベッドの端に腰掛けて、乾はまた髪をタオルで拭いていた。
乾がそうしてる間に服を脱ぎ、ベッドの中に入る。
「もういいかな」と乾はタオルをその場に落とした。
普段ならだらしが無いと怒るところだが、今日はそんなことはどうでもいい。
部屋はまだ明るいけれど、乾は遮光カーテンを引こうとはしなかった。
何を考えてるかは想像がつくが、今日に限って言えばそれは嫌なことではない。

目を閉じて待っていたら、ベッドがわずかに軋んだ音を立てた。
少しずつ乾の身体の重みが掛かり、息を吐いてそれを受け止めた。
それからゆっくり目を開いて、間近のあるはずの顔を見た。

二人とも眼鏡はとっくに外してしまっている。
だが、この距離ならそんなものは不必要だ。
切れ長の濃い色をした目に、ひと時見とれていた。
どんなに離れていても、この瞳を忘れることが出来なかった理由を今更のように思い知った。

両腕を乾の背中に回し、広さを確かめるように触れた。
少し湿った膚は、昔と変わらずに触りごこちがいい。
手を止めずに触り続けていると、乾がくすりと笑ったのがわかった。
「俺も触りたい」

乾の手が頬を包み、唇を塞ぐ。触れるだけのキスを終えると、今度は首筋に押し当てられた。同時に掌が胸を掠め、背中や腰を這い回る。
もうそれだけで、膚が粟立った。

上半身への愛撫は休むことが無かった。
指と掌、舌と唇、そして吐息までも。
その全部に身体が支配され、溶かされていく。
息が乱れ、声が洩れる。
重ねた身体には自分の反応がはっきり伝わっていることだろう。

「乾」

返事はない。

「いぬい」
もう一度呼んでみる。それでも返事は無い。

替わりに胸の突起を軽く噛まれて、全身が硬直した。
乾はわかっているのだ。自分が何を欲しがっているか。

指が前に絡みつき、少し動かされた。
「は…っ」
大きく背中が反り返る。

乾が身体をずらし、今度は濡れた指で後ろを突いた。
背筋に沿って痺れるような刺激が走る。

「だ…めだ。やめ…ろ」
胸を喘がせて声を途切れさせながら、やっとそれだけを言う。
「気持ちいいだろう?」
乾の声は少し掠れていて、その分甘く響いた。

「いき…そうだから、やめろ」
皮膚に食い込むのも構わず、思い切り肩に爪を立てた。
「イっていいよ」
という言葉に、首を横に降る。
「嫌、だ」
一人で先に達くなんて冗談じゃない。

目をきつく閉じ、唇を噛んで耐えていると、かたんと引き出しの開く音がした。
続いて聞こえた何かを裂くような音で乾が何をしているかがわかった。
その途端身体が更に熱くなり、奥深いところが痛いくらいに疼く。

もう一度乾の身体の下敷きになった。
安心すると同時に、胸が苦しくなる。
抱かれる度毎に、この男が好きになっていくようで。

底が見えないほどの深みにはまる。
際限なく増幅する。
終わり方を知らない。

どうしたらいい?
そうお前に聞けば教えてくれるのだろうか。

「乾」

「好きだよ」
という返事のあとで、液体に塗れた指が潜り込んできた。
身体が弓なりに反り、勝手に声が上がった。
抽挿を繰り返した後で、今度は熱い昂ぶりが侵入してきた。

「あ…あ」
快感と言うより衝撃に近い刺激に身体が強張る。
「力抜いて」
という言葉に従って息を吐く。
吐き切ったところで、深く貫かれて身体が大きく撓った。


きっと、際限などないのだ。
いくらでも、どこまででも、この男に溺れていく。
そうして、全身の細胞の一つ一つを、この男に侵食される。
そうされたいと願っている自分が確かにここいる。



極まる瞬間に目を開くと、乾の唇が何か囁いていた。
でもそれがどんな言葉を言っていたかはわからない。
だが、恐らく何を言ったかは予想はつく。

聞こえないときにだけ、優しい言葉を吐くのがあの男のやり方だから。
2004.0705
オフリミエロ話。と言ってしまうとストレートすぎますか。でもホントにノリはそんな感じ。

誕生日話を書こうと思ったんですよ。でも突然私の頭の中で、手塚がとつとつと自分のえっち体験を語りだしやがった(笑)。で気づいたらこんなことになってました。

タイトルの元ネタは某音楽ユニットなんですが、覚えていらっしゃる方はいるだろうか?

「2004年乾貞治誕生日祭」より。