■桜闇
タクシーを降りたとたん、仄かに甘い香りがした。

香りのする方向を探すと、マンションのすぐ近くにある公園の桜が満開になっているのが目に入った。
ほぼ満月の明るい夜空に浮かぶ薄桃色の桜は、淡く揺らぐように咲き誇っていた。
日本画そのままのような光景に、ふと思い浮かぶ白い横顔。
あの木の下に立たせると、本当に絵のように様になるだろう。

乾は一瞬止まった足を動かし、桜の似合う男の元へと歩いていった。


午前2時をとうに回ったこの時刻では、おそらく手塚はもう寝ているだろう。
乾はなるべく音を立てないようにドアを開けた。
灯りのついた玄関で靴を脱いでいると、リビングのドアが静かに開き
パジャマ姿の手塚が顔を覗かせた。

「おかえり」
「…ただいま。まだ起きてたのか」
「本を読んでいたら目が冴えてしまった」

着ているものはパジャマだったが、確かに手塚は眼鏡をかけたままだし、ダイニングテーブルの上にはマグカップが置かれている。
きっとここでコーヒーか何かを飲んでいたのだろう。

「お前、食事は?」
「会社で済ませた」
「そうか。疲れただろう。すぐに寝るか?」
「シャワー済ませたらね」
乾はスーツの上だけを脱ぐと椅子の背にかけた。

「手塚、そこの公園の桜見た?」
「昼間、横を通ったときに。満開で綺麗だったな」
「今見るとすごいよ。日本画みたいな光景だった」

リビングの窓から公園はほぼ正面に見える。
乾は部屋の明かりを消してからカーテンを開けて、手塚を呼ぶ。
「ほら、昼間とは違うだろう?」
隣りに立った手塚は少し目を細めてから
「本当だな」と低く呟いた。

薄い幕のような雲の切れ間に煌煌と輝く月。
わずかな風に揺れる満開の桜は淡く燃える焔のようにも見える。

そこだけが異空間のように夜の闇の中に浮かび上がる様は
妖しくさえ思えるほど眩かった。

「あそこに手塚を立たせたら絵になるな」
「また馬鹿なことを」
ふ、と小さく笑った。
「手塚に桜って似合うじゃないか」
「…好きな花ではあるがな。似合うかどうかなんて考えたことが無い」
「俺はずっとそう思ってたけどね」

まだ覚えてる。

学生服に身を包んだ手塚がはらはらと舞い落ちる
桜の花びらの下を歩いていたときのことを。

白い肌、黒い髪、黒い瞳。
凛とした表情を覆うように降る薄紅の桜。

そんなときの手塚は自分とは違う空気を吸っている生き物だと思えた。

初めて二人肩を並べて、降りしきる花びらの下の歩いたときのことは
尚一層鮮やかに思い返せる。

手塚の額に落ちた花びらを払おうとするのを
自分の指先が一瞬躊躇った。
そのまま手塚の白い膚を彩っておきたいような気がして。

あの時から知っていた。
手塚の透けるような膚の色に
甘く香る花びらがどれほど似つかわしいか。



「手塚、薄墨桜って知ってる?」
「聞いたことは…ある」
「蕾のときがピンク色で、咲くと真っ白で、散り際になると薄墨色になるっていう桜なんだ。岐阜に有名な木があるんだけど」
「ああ、そう言えば雑誌で見たことがある」
「見たくない?」
「そうだな。見てみたい」
「一緒に行こう。今年はもう間に合わないから、来年二人で」

手塚は静かに乾の方に顔を向け、頷いた。
「…行こう」

去年の今頃、手塚は自分の隣りにはいなかった。
今、手塚は隣りにいる。
手を伸ばせばすぐに抱きしめられる位置に。

そして来年。
間違いなく手塚は隣にいてくれるだろう。
あの春の日の朝のように、白い花びらをその身体に受けながら。

「俺は桜を見ると、手塚の素肌を見たくなるんだよ」
「お前は…少しおかしいぞ」
「多分、そうなんだろうな」

かすかに微笑む手塚の肩を抱き、そのまま引き寄せる。
目を閉じた手塚の頬を掌で包み込んで、そっと唇を合わせた。

遠い先の時間を信じていられる今の自分は
とても幸せなのだと思った。

唇を離すと、手塚は窓に手を伸ばしカーテンを締めた。
「今も…見たいか?」
「うん。見たい」

それから、乾の締めていたネクタイに指をかけた。

「見るだけでいいのか」
「出来れば、その先も」

細く長い指がネクタイを少しずつ緩めていく。

「疲れてるくせに。明日起きれなくても知らないぞ」
「明日は休日だから、構わないよ」

するりと乾のネクタイが外される。

「じゃあシャワーを浴びて来い」
「あとからじゃ駄目か?」
「駄目だ。煙草臭いから」

乾はくすりと笑ってから、自分でワイシャツを脱ぎ捨てた。

「先にベッドに行っててくれ」
「わかった」
「寝るなよ」
「お前がぐずぐずしてると、そうなるかもな」

手塚はカーテンの隙間から差し込む月の光を受けて、
艶然と微笑んでいた。

「待っていてやる」
「感謝」

細い顎に手をかけ上を向かせると
乾はもう一度手塚に口付けた。

するはずのない甘い花の香りが
手塚の艶やかな黒髪から漂ってきたような気がした。
2004.5.7
らぶらぶです。バカップルです。それで結構。大いに結構。

手塚には桜が似合う。それは決定事項です。
「桜闇」って言葉が思い浮かんで、それが書くきっかけになりました。どこかで聞いたことがあるなあと調べてみたら「篠田真由美」の本のタイトルでした。でももうその言葉しか浮かばなかったのでパクっちゃいました。すみません。
薄墨桜は有名だからご存知の方も多いでしょう。本物をぜひ一度見てみたいです。

ところで、この話の中に出てくる「二人で桜の下を肩を並べて歩く」っていうシーン覚えてらっしゃる方はいるかな?ずっと前に書いた「風を集めて」という拙作のワンシーンです。もしかしたら読んだこと無い方もいるかも。実は今B館に置かせて貰ってるんですよ。不二君視点の乾塚って形なんです。どうってことのない話なんですけど、自分の書いたものでは1,2番目に気に入ってます。