記念日

こん、とドアを軽くノックして声をかける。
「用意できた?」
「ああ」
短い返事を確認してからドアを開けると、スーツ姿の手塚が目に入った。

眩しいくらいの真っ白のワイシャツに光沢のあるイエローカーキのネクタイ。
黒に近い濃いグレーのスーツが良く似合っている。
手塚がネクタイを締めているのを見るのは久しぶりだ。

「いいね。惚れ直しちゃうくらいかっこいい」
手塚には冗談に聞こえたのか、軽く俺を睨みつけた。
「馬鹿か、お前」
こんな言葉は日常的に聞かされているので、今更なんとも思わない。

モデル張りの長身と作り物みたいな綺麗な顔。
引退したとは言え、長年テニスで鍛えた体の線は、スーツ上からでも充分うかがえる。
今の手塚は裸とは別の種類の色気がある。
本人が無自覚なのが更にいい。

「お前も準備できたようだな」
手塚はいつものくせで、片手をポケットに入れながら俺を横目で見る。
「うん。まだ時間はあるけど、もう出る?」
「そうだな。行くか」
ドアにもたれて手塚を見ていた俺に、すっと近づいてきてポケットから出した手を俺の頬にかけた。

「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
視線を合わせてゆっくりと笑い、そのまま唇を重ねた。



6月3日。
今日は俺の誕生日。







一週間ほど前のことだ。
夕食を終えた俺はいつものようにソファに深く座ってテレビを見ていた。
好んで見るのは報道番組とドキュメンタリー。
そのときは確かCNNを見ていたはずだ。

「お前も飲むか?」
食後に緑茶を飲むのは昔からの手塚の習慣で、俺も時々それに付き合うようになった。
だから手塚は前置きなしに、ただ『飲むか』と聞いていくる。
「うん。貰う」
手塚は黙って頷くと急須に二人分のお湯を注いだ。

少ししてから手塚は俺の前に茶碗をおき、自分の分も持ってくると俺の隣りに腰を下ろした。
「もうすぐだな」
「ん?何が」
「お前の誕生日」
入れたばかりの緑茶を啜りながら手塚を見ると、少し呆れた顔をしていた。
忘れていたのかと言いたそうだ。
「あー、そうだね」
「何か欲しいものがあるなら言え」
手塚は俺と違ってあれこれ考えるのが面倒らしい。
単刀直入に聞いてきた。

俺はくすりとひとつ笑って反論する。
「この間欲しいものを言ったら、却下されたんですが」
「あれはお前が悪い。俺の二番煎じは駄目だと言っただろうが」
「ケチ」
「なんとでも言え」
手塚は口の端だけを上げてにやりと笑った。
こういう顔をするのは機嫌がいい証拠だ。

去年の手塚の誕生日に、俺は手塚に俺の子供の頃の写真が欲しいと言われた。
そして手塚の望むままにそれを渡した。
手塚はその写真を大切に持っていてくれる。
俺もそうしたかったから、俺にも手塚の子供時代の写真をくれと頼んだのだが。
「俺の真似は駄目だ」
の一言で冷たく断わられたのだった。

「他の物なら出来る限り要望に答えるよう努力するぞ」
「他のものかあ…。無いこともないけどさ」
「言ってみろ」
明らかに面白がっている相手に、俺もちょっとだけお返しをしたくなった。
「新しい外付けのHD。800GBくらいあると言う事ないね。USBのメモリのでかい奴も欲しい。いや、いっそのことノートの新しいのが欲しいかな。ペンティアムの750で17インチワイドってとこかな。それとも逆にサブノートの小さい方が持って歩くには便利か。キーボードはフルピッチが好きなんだけど、俺は手が大きいし小型だとどうかな。手塚はどう思う?」

手塚は無言で俺を睨みつけた。
「いい度胸だ。俺に喧嘩を売る気なわけだ」
「滅相も無いです」
「欲しいものはないと思っていいんだな。よし。じゃあそういうことでこの話は終わりだ」
「てづかあー」
「気持ちが悪い。変な声を出すな」
ごん、と飛んできた左手に側頭部を殴られた。
勿論手塚は本気ではなく、目は笑っていた。
…だけどちょっと痛いんですけど。

「でも、今の当たりかもね」
俺は殴られた場所を撫でながら手塚に言った。
「本当に欲しいものなんて、もう無いかもしれない」
「寂しいことを言うな」
少し眉を顰めた手塚に向かって、俺は首を横に振る。

「そうじゃないよ。俺が欲しいものはもう全部貰ったから」
「全部…か?」
「うん。全部、手塚がくれた」
手塚は数秒間俺を見つめた後、静かに視線を落とした。
「俺は貰うばかりでお前に何も返せてはいない」
「そんなことない」
俯く手塚の顎に手をかけて、そっと上を向かせた。

「手塚は今、俺の傍にいてくれる」
「それは俺がそうしたいからだ」
「この先も一緒にいてくれると言ってくれた」
「それだって、俺がそうしたいと思ったからだ」
「だからさ、それが俺には一番嬉しいんだよ」

俺は手塚の肩に手を回して、二度と触れることは出来なかったかもしれない身体を抱きしめた。

「乾」

同じように、再び俺の名前を呼ぶことが無かったかもしれない唇を塞いだ。

今こうしていられるのは、手塚が手塚自身を俺にくれたからだ。
一度は全部を失った。
だけど、その全部をもう一度手塚は俺にくれた。
これ以上、俺が望むものがこの世にあるはずが無い。

「手塚が俺と一緒にいることを望んでくれた。それが最高の贈り物だよ」
「気障だな、お前」
「こう見えてもロマンチストですから」
俺の肩に顔を埋めたままで、手塚はくすっと笑った。
耳朶が少し赤くなっているから、しばらく顔は上げないつもりだろう。

「あ、欲しいものがひとつ浮かんだよ」
「何だ?」
手塚はまだ顔を上げない。
「手塚は俺の子供の頃の写真を貰ってくれた。それは言い換えれば、俺の過去の時間を貰ってくれたってことじゃないか?」
「そう言えなくもないな」
「じゃあ俺は手塚の今が欲しい」
「今?」
手塚は漸く顔を俺に向けたが、額はまだ俺の肩に乗ったままだ。

「うん。今の手塚の写真が欲しいな。そうだ。俺の誕生日に手塚の写真を撮らせてくれないか」
「…それでいいのか?」
「いいよ」
「わかった」
手塚は静かに微笑んだ。
肩の重みが心地いい。

「来年も、再来年も俺の誕生日には手塚の写真を撮るのを決まりにしようか」
「お前がそうしたいなら」
「手塚。今の意味、わかってる?手塚の未来を俺にくれって言ってるんだよ?」
「わかっているつもりだが」
上目遣いに俺を見上げる表情は、やや不安げだ。
要するに手塚はわかってないってことだ。
俺は軽く笑ってから、手塚の身体を抱き直した。

「これ、プロポーズのつもりだってわかってる?」
「え…?」
「俺から言ったことなかったよね」

一緒に暮らそうと言ってくれたのも手塚で、同じ時間を過ごそうと言ってくれたのも手塚だった。
手塚に先をこされたけど、いつか必ず俺からも言おうと思ってた。

ずっと俺と一緒にいてくれと。
俺が生きていくには、手塚が必要不可欠だと。

「で、返事は?」
「言うまでもないだろう」
手塚は少し目を細めて俺を見ている。
「聞きたい」
俺がそう言うと、手塚はいきなり俺の首に手を回して力任せに引き寄せた。
そして俺の耳元ではっきりと言った。

「覚悟をしておけ。お前を離すつもりは無いから」

覚悟ならとっくに出来てるよ。

噛み付くような手塚のキスに負けないように、俺も両腕に力を込めて手塚を抱いた。
俺だって二度と手塚を手放す気なんてない。
こんなに好きなのに離れられるはずが無いじゃないか。

長いキスを終えて力を緩める。
腕の中の手塚は、何かを思いついたような顔をした。
「乾」
「ん?」
「写真を撮るなら、二人一緒に撮らないか」
「あ、いいね、それ。記念写真にしようか」
「ああ。セルフタイマーを使えば問題ないだろう」
「いや、駄目だ。記念写真ならちゃんと写真館で撮ってもらわない?」
「男二人でか?」
手塚は思い切り眉間に皺を寄せた。
おいおい、さっきまでの色っぽい顔はどこへやった?

「いいじゃないか、別に。俺、誕生日に有給取るから二人でちゃんと正装して写真館に行って、写真とって貰おうよ」
「お前の誕生日だからな。お前がそうしたいならつきあってやるか」
「ぜひとも」
俺に尻尾があったなら、今きっとちぎれそうな勢いで振っていると思う。
そんな俺にほだされたのか、手塚は観念したように笑った。
何時の間にか赤かった耳朶は普通の色に戻っていた。




誕生日当日は良く晴れた。
手塚と二人早めに家を出て、あちこちより道をしながら目的の写真館に向かった。
陽射しはそこそこに強かったが、気持ちのいい風が吹き汗もかかずにすんだ。
嘘のように穏やかな時間だった。
手塚も俺も殆ど何も言わず、ただ歩いた。

そうして予約してあった写真館に着いたのは、ほぼ予定通りの時間だった。
「ここか?」
「うん」
俺達の前にあるのは、映画かドラマの中に出てきそうな古い写真館。
まるでそこだけ昭和のまま時間が止まっているようだ。
もしかしたら、この場所自体が写真の中にあるのかもしれない。

二人で中に入り名前を告げると、撮影する部屋に通された。
そして久しぶりで見た大きな黒いカメラの前に立った。

カシャっと乾いたシャッター音がした。
それは俺と手塚の時間が切り取られた音だ。

俺達の一瞬の永遠は印画紙に焼きついて、ずっとここに残るのだ。


2005.7.3

祭ラストはどうしてもオフリミにしたかった。書けてホッとしました。

乾からちゃんとプロポーズさせてないのがずっと気になっていたんです。それを書きたかった。そして、手塚は乾の過去を欲しがって、乾は未来を欲しがるというのも書きたかったんです。内容はともかくそこを書けて嬉しいです。

一ヶ月、どうもありがとうございました。どうなるかと思ったけど、なんとか最終日を迎えられたのは来て下さった方のお陰です。沢山の拍手とメッセージ、とても嬉しかったです。これからも乾と手塚を愛していこうと思いますので、良かったら時々覗いてやってくださいね。

ここに来て下さった全ての方に心からの感謝を。