BITTER SWEET
その夜、珍しいことに、乾はひとりリビングのソファに寝転がり、テレビを見ていた。といっても、眼鏡をかけたまま両の目は閉じられていて、音声だけがかすかに耳に届く程度だ。
さっきまでは、どこかの教会のクリスマスミサの中継をやっていたが、今テレビが何を映しているのかは、もうわからなかった。
親が買い置きしていた缶ビールを、2本ばかり掠めて飲んだせいかもしれない。
とにかく眠くて仕方ない。
テレビは諦めて、自分の部屋で寝ればいいのかもしれないが、この中途半端なとろとろとした眠りが心地よくて、起き上がる気になれなかった。
親が帰ってくる前に、忘れずに空き缶は処分しておかなきゃ。
夢うつつにそう思いながら、乾は窮屈なソファの上で寝返りを打った。
その時。
テレビの前に置きっぱなしになっていた携帯電話が、いきなり鳴った。
慌てて起きようとするが、寝ぼけていて身体が素早く対応しない。
いつもなら着信音で気づくはずなのに、乾はやっと掴んだ携帯の液晶表示を見て、ようやく電話の相手が誰か気づいた。
手塚だ。
「もしもし」
かっちりとした、生真面目な声。
やっぱり手塚だ。
寝ていたのがばれないように、一度咳払いをしてじから返事をした。
「あ、うん。俺だけど」
「寝てたのか?声が変だ」
あ、ばれた。
無駄な努力に、乾はつい苦笑した。
「少し、うとうとしてた。で、何かな?」
「これからお前のところに行く。あと15分くらいでつくと思う」
「え?どうしてだ」
「だめか?」
「いや、だめじゃない。全然、だめじゃない」
「ならいい。15分後にな」
「あ?」
一方的に電話は切れ、結局理由は聞けなかった。
乾は凝った首を捻りながら、部屋の時計を見た。
時間は、あと少しで九時になるところだった。
手塚にしては、遅い時間だ。
なぜ、こんな時間に急に来るなんて言い出したんだろう?
今日は手塚は家族と一緒にクリスマスを過ごしているはずなのに。
しかし、来ると言うからには、手塚は来るだろう。
とりあえずは早いところちゃんと目を覚まして、ここを片付けなきゃ。
乾は身体を起こし、パンと自分の頬を叩いた。
部屋の鍵をかけ、エレベータで1階まで降りる。
そろそろ、手塚が着く頃だ。
人気のないエントランスをゆっくりと歩いていくと、ガラス越しに、見覚えのあるシルエットが目に入ってきた。
オレンジ色の街灯の下、濃い色のコートを来た手塚が歩いてくる。
左手には、何か紙袋らしきものを、ぶら下げているようだ。
気温が低いのか、吐く息が白い。
本当に来たんだ。
ドアの内側から軽く手を上げて合図を送ると、手塚はそれに気づいたようで、かすかに頷くのが見えた。
くすっぐたいような嬉しさで、乾は少しだけ笑う。
自動ドアを内側から開けると、冬の匂いを連れた手塚が中に入ってきた。
こげ茶色のダッフルコートの襟元には、モスグリーンのマフラーが巻かれている。
「寒かった?」
「いや、それほどでもない」
そう答える手塚の頬は少し赤くなっていた。
肩を並べ、1階に止まったままになっているエレベーターに乗り込む。
ドアが閉まるのと同時に、手塚は、ゆっくりと息を吐いた。
「急で悪かったな」
「暇でゴロゴロしてたところだから、全然かまわないよ」
片手でマフラーを外そうとしているのを見て、乾は手を差し出した。
「それ、持とうか?」
「いや、いい」
手塚は、大きな紙袋をひとつ下げていた。
乾の視線に気づき、手塚は少し照れたような顔で下を向いた。
伏せ気味の長い睫毛が、影を作った。
「お前、食事はもう済ませたか?」
「うん。軽く食べた」
「お前が今日1人で家にいることを母に話したら、これを持って行けと言われたんだ」
そう言って、手塚は、紙袋を軽く持ち上げた。
「何?」
つい反射的に中味を覗いてしまう。
「俺も、ちゃんとは見てないんだが、多分母の作った料理が、色々入ってると思う」
何時だったか忘れてしまったが、今年のクリスマスは親が二人とも家を空けるから、一人きりだということを何かのついでに話したことがあった。
それを、手塚は覚えていたのか。
「わざわざ、差し入れしてくれたんだ。悪いな」
「いや、残り物ばかりなので気にしないでくれ」
もう、1人のクリスマスを寂しがるような年齢ではないが、来てくれたのが手塚なら話は違う。
手塚の家の人にまで気を使わせて申し訳ないと思う反面、こうやって足を運んでくれたことが素直に嬉しい。
「ありがたくいただくよ」
乾の言葉に、手塚は照れた顔のまま黙って頷いた。
鍵を開けて家に入ると、なぜか二人同時に大きく息を吐いた。
手塚のコートを受け取り、ハンガーにかける。
いつもなら、ここで真っ直ぐに乾の部屋に向かうところだが、今日はキッチンへと向かった。
手塚は立ったままで、紙袋の中から花柄の包みを取り出し、テーブルの上に置いた。
実物を見ると、なんだかわくわくしてきた。
「開けていいか」
「口に合うかどうかは、わからないぞ」
ナプキンを解くと、更にいくつかの容器が出てくる。
一番大きなタッパーウェアの蓋を開けたら、中から綺麗な焼き色のついたローストチキンが現れた。
つい「美味そう」と言うと、手塚はわずかに嬉しそうな顔を見せた。
多分、それは自分しか気づかない表情だろう。
他のも次々と開けてみた。
シーフードの入ったピラフ、ガーリックの乗ったグリーンサラダと、それ用のドレッシング、トマトソースのかかったペンネがテーブルに並んだ。
「全部美味そうだ。こんなに沢山ありがとう」
「いや、本当に残り物ばかりで悪いんだが」
そう言いながら、手塚はまた紙袋の中から白い小さな箱を取り出した。
「それは?」
乾が聞くと、手塚はさも言いにくそうに、ぼそぼそと答えた。
「…ケーキらしい」
「見ていい?」
手塚は、白い箱を黙って乾の前に差し出した。
乾は、箱の蓋を慎重に開いた。
箱の中身は、直径が10pよりも、少し大きいくらいの黒いケーキだった。
表面に軽くパウダーシュガーがかけられているほかには、何の飾りもない、ごくシンプルな濃いチョコレートの色をしたケーキ。
「これ、手塚のお母さんが作ったのか」
「そうらしいな」
「すごいね、売り物みたいだ」
「そうか?」
うん、と乾は素直に頷く。
「あまり甘くないといっていたから、多分お前でも食べられると思う」
「ありがとう。あとでいただくよ」
乾はもう一度ケーキに蓋をすると、それを冷蔵庫にしまった。
チキンにケーキ、こんなクリスマスらしいメニューが揃ったのは何年ぶりだろうと思う。
「手塚は家で食事してきたんだよね?」
「ああ」
「うちのクリスマスは、いつもポトフなんだけど、まだ少し残っているんだ。ちょっと味見しないか」
「じゃあ、少しご馳走になる」
乾はコンロに火をつけ、ポトフを温めなおす。
「しかし、酷い母親だよな。1人息子をほったらかしにして、自分はさっさと親父のところに行っちゃうんだから」
皿を並べながら、乾が笑い混じりに愚痴ると、手塚も小さく笑う。
「可愛げのなくなった息子は、もうほうっといてもいいんだろう」
「確かに可愛げのあるほうじゃないとは思うけど」
乾の返事が気に入ったのか、手塚には珍しく声を上げて笑った。
その声は、うっかりすると聞き逃すくらい、とても小さいものだったけれど。
暖めなおした料理をセッテイングし、向かい合ってテーブルについた。
「じゃ遠慮なくいただきます」
「いただきます」
手塚は、手を合わせて言った。
それを確認するのが、乾の密かな楽しみだが、今のところ手塚には内緒にしてある。
ニヤニヤしそうになるのを隠しながら、自分も料理に手をつけた。
手塚家のローストチキンは、とても旨かった。
スパイスの効いた、大人向けの味がする。
「このローストチキン、すごくおいしいね、」
「これも美味い」
そう言って、手塚は、乾の母親の作ったポトフを口に運ぶ。
手塚は、食事をするときの仕草が、とても綺麗だ。
左利きの人間が食事するのを見ると、どことなくぎこちなく感じたりすることががあるが、手塚に関してはまったくそういうことがない。
そんな手塚を見てるだけで嬉しくなる自分に気づく。
数時間前に1人きりで簡単に済ませた夕食が嘘のようだ。
あれが生きるために必要な、単なる捕食行動だとしたら、今こうしてる時間が、本当の食事なのかもしれない。
クリスマスだからといって、どうしても手塚に会いたかったというわけじゃない。
そこまで自分は甘ったるい人間ではない。
手塚だって、そうだと思う。
でも、今目の前に手塚がいて、我が家のポトフを食べているところを見るのは悪くない。
1年に一度くらい、こんな日があったっていいよな──。
暖かい気分というのは、こういう気持ちをいうのかもしれない。
思いがけずに、手塚がくれた時間を、乾は存分に味わっていた。
「ご馳走様」
乾は、ふうと息を吐いて、スプーンをおいた。
「さすがに全部は食べられないね。まだケーキもあるし」
「無理はするな」
「残りは明日またいただくよ」
乾は立ち上がり、空いた食器を運びはじめた。
「俺も手伝う」
立ち上がりかけた手塚を軽く手を上げて、制止する。
「食器洗い機につっこむだけだから」
乾の両親は共働きだから、なるべく家事を素早くこなせるようにと、食器洗い機を始め、乾燥機付の洗濯機、電気式の生ゴミ処理機等、色々な電化製品が揃っている。
手早く、食器を並べてスイッチを入れると、それで後片付けは終了してしまう。
「さて、ケーキ食べる?もう少しあとにする?」
見ると手塚は、足元においたままになっている紙袋をみつめたまま黙っている。
「どうした?」
乾はもう一度、椅子に腰をおろす。
手塚は紙袋に手を入れ、ガサガサと音を立てながら、緑色の包装紙に赤いリボンというクリスマスカラーの包みを出した。
「これも母から、お前に渡すように言われてきた」
手塚が、なるべく表情を変えないように努力しているのが、わかった。
だが、かすかに頬が赤くなっている。
「俺にくれるの?」
手塚が手を伸ばして、乾の方にそれを押し出した。
「ああ」
「今、開けていいかな」
「ああ」
わざとぶっきらぼうに答える手塚を可愛いと思いながら、自身も顔が熱くなりかけているのが、わかった。
丁寧にリボンを外し包みを開けると、中には黒いスエードの手袋が入っていた。
手首の部分には細いベルトがついていて、縁に濃いグレーのラインが入っている、シックなデザインだった。
「手袋だ」
見ればわかるが、そうとしか言えなかった。
「ああ」
「いいデザインだね」
「そうか」
「うん。お母さんに、ありがとうって伝えておいて。」
「わかった」
「喜んでたって言っといてくれ。すごく俺の好みだ。俺、黒って好きなんだ」
「…黒を選んだのは俺だ」
乾が顔を上げると、手塚と目が合った。
手塚の顔は、はっきりとわかるくらい赤く染まっている。
「母が、お前が何色が好きかと聞くから、黒が似合うと言ったら、それを選んだ」
手塚は乾から視線を外し、頬杖をついて横を向いている。
赤くなった顔を、乾に見られたくないのだろう。
「ありがとう。めちゃめちゃ嬉しい」
「そうか」
「俺も…何か用意しておけばよかったな」
「気にするな、母が勝手にしたことだ」
手塚はまだ、こっちを向かない。
「ちょっと待ってて」
乾は立ち上がって、自分の部屋に歩いていく。
引き出しをあけ小さな袋を手にすると、すぐにダイニングに戻ってくる。
「これ、もらってくれるかな」
手塚の前にそれをポンと置くと、手塚は上目遣いに乾を見た。
「プレゼントってわけじゃないんだけど、自分のを買ったついでに手塚の分も買ってみた」
手塚がくれたものとは大違いの、買った店のロゴの入った味気ない袋を、手塚はそっと左手で開いた。
中味は、ただのリストバンドだ。
つい先日、乾が自分用のものを買いに行ったとき、もうすぐクリスマスだと思い手塚の分も気まぐれに買ったものだった。
改めてプレゼントを用意するのも、なんだか気が引けたので、この程度なら軽く渡せるだろうと思ったのだ。買ってしまったものの、どうも渡すきっかけがつかめず、そのまま引き出しにしまいこんでいた。
白地に黒のブランドマークが入っているだけのもので、乾が持っているのは丁度逆の配色になっている。
「そんなもので悪いけど、使ってくれ」
「…ありがとう。使わせてもらう」
手塚は、しばらくリストバンドを眺めた後、丁寧に袋にもどす。
そのあとは、しばらく会話が続かず沈黙が流れた。
下手に口を開くと、とんでもなく甘いことを言ってしまいそうだった。
だが、いつまでも黙っているわけにもいかない。
「ケーキ出すね」と乾が言うと、明らかにほっとした様子で手塚が頷いた。
本当に手塚は、嘘をつけない。
冷蔵庫からケーキの箱を出し、キッチンから包丁を持ってくる。
「切るのもったいないね」
「切らなきゃ食べられない」
「そうだけどさ」
笑いながら刃をあてようとすると、手塚が何かを思い出したように口を開いた。
「ああ、そう言えば、ゆるめのホイップクリーム…だったかな?本当は、それをかけると美味いと言ってたな」
「ケーキに?」
「そうらしいな」
乾は包丁を置いて、手塚に向かって笑いかける。
「じゃ、今から買いに行こう」
「今から?」
「うん。まだスーパーは開いてるし、すぐそこだから」
「面倒だ」
「どうせなら美味しいのを食べようよ」
腹ごなしにもなるし、と眉を顰めて渋る手塚に、無理矢理承諾させた。
外に出ると、さすがに空気が冷たかった。
いつもなら、この時間でも多少の人通りがあるのだが、今日ばかりは殆ど人が歩いていない。
手塚と二人きりでスーパーまでの道のりを肩を並べて歩くというのも、なんだかおかしい気分だ。
しかも目的はケーキ用の生クリーム。
乾は手塚に気づかれぬように小さく笑った。
「手塚は、家の人から何かプレゼント貰ったのか」
「一応。お前は?」
「貰った。っていってもいつも通りだけどね。新しいラケットとシューズ。手塚は何を貰ったの?」
そう乾聞いても、なぜか手塚は黙っている。
「何で黙ってる?」
「…別に言う必要もないだろう」
ちらっと横目で見ると、憮然とした顔をしていた。
「隠すことないだろ。教えてくれよ」
「嫌だ」
「隠すと余計に聞きたくなるんだって」
「…うるさい」
「言わないと、ホイップクリームに青汁投入するよ」
手塚は大袈裟にため息をつくと、いかにも嫌そうな調子で口を割った。
「…ノートパソコン」
「え…?手塚が?」
意外な言葉に、つい本音が出た。
手塚は、じろりと乾を睨みつけると急に歩く速度を速めた。
「だから、お前に言いたくなかったんだ」
「ぼめん。もう言わないから」
慌てて、後を追いかける。
「…言っておくが、俺が欲しいといったわけじゃないからな。親が勝手に決めたんだ。それでいいかと聞くから、いいと答えただけだ」
言い訳するように、手塚は、一気に早口でまくし立てた。
ここで笑うと本当に怒られそうなので、それを堪えて返事をする。
「いいじゃないか。自分専用のパソコンがあると何かと便利だよ」
「そうかな、と俺も思ったんだ」
手塚の声が、ほんの少し和らぐ。
「わかんないことがあったら聞いてくれ。手塚よりは詳しいと思うから」
手塚はちらっと乾の顔を見上げてから前を向いた。
「頼む」
手塚と言う人間は、素直なんだか素直じゃないんだかわからない。
自分をさらけ出すことをしないし、飾ることもない。
おそらく殆ど人の目を意識しないでいるのだろう。
恐ろしくマイペース。
というより、他の人間にもペースがあるなんてことを、考えたこともないかもしれない。
手塚は無垢であり、同時に尊大でもある。
でも、とりあえず自分にとっては、そんな手塚はとても可愛い。
そんなことをうっかり本人の前で言ったりしたら、一生口を利いてもらえないかもしれないが。
スーパーの中は閑散としていた。
目的のコーナーまで二人でゆっくりと歩いていく。
「手塚、生クリームはこっちだ」」
乳製品の並ぶ棚の前に立つと、となりの手塚が不思議そうな顔をしている。
生クリームを選ぶなんてことは、おそらく生まれて初めての経験だろう。
「色々、種類があるんだな」
手塚は、おそるおそるという感じで、棚にある生クリームの小さなパックに手を伸ばした。
「あ、それは駄目だ」
「そうなのか?」
「うん。もっと乳脂肪分の多いのがいい」
乾は、別の赤いパックのものを選んで、手にとった。
やたらと図体のでかい男二人が生クリームを選んでいるのが不思議なのか、通り過ぎる他の客に怪訝そうな顔で見られている。
手塚がそれに気づくと、きっと真っ赤になるだろうから早いところ出た方がいい。
レジで清算を済ませ外に出ると、待ち構えていたように手塚が話し掛けてきた。
「なぜお前は生クリームのことまで詳しいんだ?」
「俺がもっと小さい頃には、うちでも手作りのケーキを焼いてくれたんだよ。俺は物を作る工程を見るのが好きで、母親がケーキを作るところもよく見てたんだ」
手塚は、ふっと小さく微笑んだ。
「お前のことだから、しつこくまとわりついてあれこれ聞きまくったんだろうな」
そうそう、と乾も笑う。
生クリームがひとつ入った袋をぶら下げて、今来た道を引き返す。
空を見上げると、星が瞬いていた。
気温が、また一段と下がったようだ。
一瞬の風に、手塚は寒そうに身を竦めた。
誰も見ていないなら、今すぐ自分の腕で暖めてやるのにと乾は思った。
部屋に戻り、乾は、急いで生クリームを泡立てる準備を始めた。
大き目のボールに氷と水を入れ、一回り小さいボールを、その上に置く。
買ってきたばかりの生クリームをそこにあけ、泡だて器を使って、かしゃかしゃと泡立て始める。
手塚は黙ってそれを見ているだけだ。
「電動の泡だて器もあるはずなんだけど、どこにしまったかわからないんだ」
「どっちがいいんだ?」
「電動の方が早い」
感心しているのか呆れてるのか判別の難しい顔で、手塚はじっと乾の手元を見つめていた。
「疲れないか?」
「平気」
「…交代してもいいぞ」
手塚は、神妙な顔つきでそう言った。
思わず吹き出しそうになったが、かろうじてそれを堪える。
「いや、俺1人で大丈夫。それより冷蔵庫からケーキ出して」
乾の言葉に素直に従う、手塚が可愛い。
「クリームは、ゆるめがいいんだよね?」
「そうらしい」
あまり泡立て過ぎないように、乾は、頃合を見計らって手を止めた。
丁度良く、かけてあったやかんの湯も沸騰したようだ。
「今日は紅茶にしたよ」
白いティーカップを二つ並べ、そろいのポットに手早く紅茶の葉を入れ、お湯を注ぐ。
紅茶が出るのを待つ間に、ケーキを4等分に切る。
白い皿に黒いケーキをのせ、泡立てたばかりの生クリームをスプーンでかける。
ゆるめのクリームの白が、チョコレートの色によく映えた。
「こんなところかな」
座る手塚の前に皿を置き、銀のフォークを手渡す。
紅茶の色を確かめてから、カップに注いだ。
テーブルの上には湯気の立つ紅茶と、生クリームのかかったチョコレートケーキ。
そして、目の前には誰より好きな相手。
あまりにクリスマスらしい情景に、照れを通り越して声を上げて笑い出したいような気分になった。
手塚も、どうやら同じような気持ちらしい。
さっきから自分と目を合わせようとせず、ただ紅茶のカップだけを意地のように見つづけている。
ああ、手塚のそういうところは本当に好きだな。
手塚がこちらを向かないことを確信して、乾はゆっくりと声を出さずに笑った。
「いただきます」
フォークで一口分ケーキを崩し、自ら泡立てた生クリームをすくう。
一緒に口に入れると、苦いチョコレートの味と、純度の高い生クリームの濃厚な風味が広がる。
「苦くて、美味しいよ」
手塚も左手でフォークを持ち、ケーキを口に運ぶ。
「確かに苦いな。でも美味い」
手塚は、満足げに小さく頷いた。
何時までも後を引くベタベタした甘さなんか、欲しくない。
苦いくらいが丁度いい。
甘さが欲しければ、少しだけ足してやればいい。
出来のいい、混ざりもののない甘さをほんの少しだけ。
「甘すぎないって、いいね」
笑いながら言った乾の言葉に、手塚は目を細めた。
手塚は滅多にそういう笑い方をしないのに。
「ケーキの話か?」
手塚も中々言うようになったじゃないか。
乾は笑いながら、二杯目の紅茶を手塚のカップに注いでやった。
白い湯気を通して、手塚の視線を感じる。いつもの澄んだ強い瞳は、今は白く霞んで見える。
気づくと、手塚の手が自分の腕を掴んでいた。
きっと今触れると、その唇は少し苦いだろう。
今日は、いいことしか起こらない日だから、これでいいんだ。
365分の1の奇跡に感謝しながら、乾はそっと唇を重ねていた。
2003.12.23
恥ずかしいほど甘いです。全然ビターじゃないつーの。しかも長い。ごめんなさい、ごめんなさい。キスで終わるのは、何度もやった手だから止めようと思ったのに!でもクリスマスだからちゅーくらいさせたかったんだもん。ホントは帰りに送っていくところまで考えてたんだけど、長すぎるので止めました。。二人で生クリームを買いに行くシーンを思いついて、それを書きたいばかりに作った話。
文中のチョコレートのケーキは、よくショコラクラシックなんていう名前で呼ばれるタイプ。けっこう苦くて、中に何も入っていないやつ。私の思う手塚家は全員が和食党なんだけど、クリスマスくらいはこういうメニューでもいいかと思いました。おじい様だけは、頑固に和食かもしれません。
手塚のもらった「ノートパソコン」は、この続きの話の伏線のはずでした。根性ないので翌日の話は後日改めて書きたいと思います。
しかしさ、手塚母はこの二人のことをどの程度わかってるんだろう?実はお見通しなんじゃないのか?だとしたら理解のあるお母さんだよな(笑) 。
※2009.08.22修正