チョコレート戦争

「チョコレートの橋渡し厳禁」
いつにもまして厳しい表情の部長から、その命令が下ったのは、バレンタインを一週間後に控えた日のことだった。

青学男子テニス部員は、かなりもてる。
それは、他の運動部と比較しても明らかだった。
部員数で言えば、決して多いほうではないテニス部だが、バレンタイン当日ともなると、テニスコートを取り巻くように女の子が群がっている。

特にもてるのは不二と菊丸。
二人とも一年のときから今に至るまで、同学年のみならず下級生、上級生からもチョコレートを貰いまくって机の上に山を築いていた。
下級生に人気があるのは、なんといっても大石だ。
真面目で優しく、面倒見がいいからだろう。
逆に小さくて可愛いと、上級生からの人気が集中しているのは越前だ。
本人は、さほど嬉しそうではないところが、かえって母性本能を刺激するのかもしれない。
他のレギュラー陣も、毎年そこそこの数をキープしているのは間違いなかった。

問題は手塚だ。
手塚も当然もてる。
生徒会長兼テニス部の部長というだけでも注目に値するのに、見た目も人並み外れているとくれば、人気が無いわけがない。
ただ、手塚が他の部員と違うのは、チョコレートを直接手渡されても、決して受け取らないということだ。
今時珍しいくらい生真面目な手塚は、それが義理であれ本命であれ、片っ端から断わってしまうのだ。

そうなると、手塚ファンのとるべき方法は、おのずと限られてくる。
クラスメートや他のテニス部員に、手塚に渡すようにと無理矢理押し付けてしまう。
手塚はそうやって中学のときから、部員が預かってきたチョコレートを、渋々受け取る羽目になっていた。

だが、さすがの手塚も毎年毎年同じことを繰り返すことに、嫌気が差したらしい。
ついに今年は「誰かに渡せといわれても決して受け取るな」という部長命令を発動した。
その噂はあっという間に学校中に広まり、女子からはかなりのブーイングが出た。
とは言え、女子の非難を浴びるより、手塚の方が恐い部員が大半の男子テニス部。
手塚の命令は絶対だった。
バレンタイン当日の今日まで、誰もその禁を破るものは、いなかった。



その日、乾は日直にあたっていて、部活に来るのがいつもより遅くなった。
少し急ぎながら部室へ入ろうとすると、ふいに後ろから声を掛けられた。
「あの、ちょっと、いいですか」
振り向くと、どこかで見た顔ではあるが、名前を把握していない女生徒が立っていた。
大きな目は不安そうに揺れている。
この子は、確か一年下の学年だった。
時々テニス部の練習を見に来ていたことを、乾は憶えていた。

「何かな?」
乾が声を掛けると、その生徒は、おそるおそると言った調子で口を開いた。
「あの…」
恥ずかしいのか、頬が赤く染まっている。
手に持っている、光沢のある白いリボンのかかった小さな箱が何かくらい、乾には、すぐに察しがついた。

「これ、チョコレートなんです」
小さな声は震えているが、真っ直ぐに乾を見つめている。
その目が、とても印象的だった。
そういえば、この子は、よく手塚を見ていた。
部活中に手塚と話をしているときなんかに、視線を感じて振り向くと、この子と目が合うことが何度かあった。

きっとこの子は、手塚の下した決断を知らないのだ。
乾は、なるべく優しく聞こえるように気をつけながら言った。
「ごめん。…今年は部長命令でチョコレートを預かるのは、禁止になったんだ」
「え?」
下級生らしい女の子は、目を開いて乾を見ている。
いかにも不安げな表情を見てしまうと、少し可愛そうになる。

「手塚は、多分もう部活に出ちゃったと思うんだけど、帰りなら掴まえられるから。思い切って直接当たってみたらどうかな?」
乾がそう言うと、見つめてくる目が泣き出しそうになっていく。

やばい。
泣かせてしまう。

「ごめんね。ホントにごめん。渡してあげたいのは、山々なんだけど」
焦りながら堪えると、その子は首を横に振った。
「違います」
「は?」
予想に反する言葉に、思わず間の抜けた声を出してしまった。

「これは、乾先輩に貰って欲しいんです」
目の前の子は、恨めしそうに乾を見上げていた。
「…俺?」
「はい」
ここで、はにかんだような顔をした下級生は、乾に向かってチョコレートの包みを差し出した。

乾だって、チョコレートくらい貰ったことは、ある。
だけどそれは大抵の場合、明らかな義理であることが多かった。
クラス全員に配られるものであったり、不二や手塚への手渡しのお礼に貰うものであったり。
たまには奥ゆかしく机の中にこっそり入れてあることもあったけれど、こんな風に乾本人に向かって、チョコを渡そうとする女の子は、今までにはいなかった。

「乾先輩は付き合ってる人、いますか?」
うろたえる乾を前に、言うべきことを言ったせいか下級生らしき子のほうが、今は落ち着いていた。
「先輩?」
「いや、あの、いるような…いないような」
「どっちですか?」

慣れない状況に、いつもの半分も頭が回らなかった。
どう答えていいかわからなくなってしまっている。
だけど、本当のことは言っちゃいけないというくらいの理性は、混乱気味の乾の中にも残っていた。
「…います。でもこの学校の女子じゃない」

嘘は、言ってない。
この学校の生徒ではない──なら嘘だったろうが。

目に見えてがっかりした子にお詫びを言って、それでもチョコレートだけは受け取った。
ありがとうを言って後姿を見送った時には、すっかり脱力してしまっていた。
大きく息を吐いてから、部室に入ろうとした乾の目に、腕組みをしてこちらを向く長身が映る。

あ。

「手塚?」
「見ればわかるだろう」
当たり前だ。
誰が手塚を見間違えるか。

「…いつからそこに?」
「お前より一足先に来ていた。着替えをすませて出ようとしたら込み入っていたようなので、中で待っていた」
「込み入ってたって…」
手塚の顔はいつも通りの無表情で、何を考えているか予想がつかない。

「お前らしくない狼狽ぶりだな」
「誰かと違って、こういう状況には不慣れだからね」
照れ隠しにそう言うと、手塚は僅かに笑顔を見せた。
「良かったじゃないか。好きだと言われて」
「よく言うよ。いつも冷たく断わる奴が言う台詞じゃない」

ブツブツ言いながら手塚の横を通り抜け、部室のノブに手をかけると、手塚がくすりと笑うのがわかった。
「お前は誰と、つきあってるって?」
「…知りたい?」
振り向いた手塚は、意地悪そうに唇の端を上げている。
「もう知っている」

その表情に一瞬見とれた自分が悔しくて、乾は苦笑した。
「じゃあ聞くなよ」
手塚はすぐにいつもの顔に戻る。
「お前のせいで部活に出るのが遅れた」
「埋め合わせは、するよ。チョコでもあげようか?」

「いらん。チョコレートはあまり好きじゃない」
手塚はラケットを持っていない手をポケットに突っ込み、歩き出した。
そして数歩進んでから、もう一度振り向いた。

「2月14日は、母が毎年チョコレートケーキを焼くんだ。お前、食べるか?」
「ぜひ頂くよ」
「それなら今日、家に寄っていけ」
「うん。そうさせて貰う」
手塚は小さく頷くと、
「急いで着替えろ」とだけ言って、テニスコートに向かって歩いていった。



乾の手の中にあるチョコレートは、少しだけ重たい。
きっとそれは僅かな罪悪感のせいだ。

好きだと言ってもらえるのは、確かに嬉しいことではあるけど。
例え誰かを泣かせることになったとしても、俺は手塚一人いればいいんだ。



ごめんね、と小さな声で謝ってから乾は部室のドアを開けると、中には、ほのかな甘い香りが漂っていた。


2005.02.14

お約束のバレンタイン話です。実はこれ一年前に考えたネタ。去年書きそびれたのです。
書けてすっきりした。
去年考えたのは、もう少しギャグテイストだったんだけど、難しくて断念しました。

うちの手塚は乾に頬を染めてチョコを渡すようなタイプじゃないんでねえ…。むしろ乾の方が手塚に贈りそうだよ。それでも乾塚と言い張りますよ(笑)。

チョコレート戦争って本、小学生のとき読みませんでした?あれ、大好きだったなあ。