個体識別
「手塚って、いつから俺を俺だと思ってた?」手塚は左手でペンを持つ姿勢のまま、十秒ほど固まっていた。
目の前の男が、唐突に変な事を言い出すのは、いつものことだ。
いい加減それにも馴れてきたつもりでいたが、今回もやはりすぐに対応するのは無理だった。
他の部員はとっくに帰ってしまって、今は少し寒い部室に二人きりだ。
部長の自分と副部長の大石、そして参謀として乾。
今日は、部活後にその三人で、近々予定している練習試合のオーダーを組んでいた。
大石は用事があるとかで、一足先に帰ってしまった。
とたんに、それを待っていたかのように、乾はわけのわからない質問を手塚に投げかけた。
「…何の話だ?」
「何のって、そのままの意味だけど」
乾は、まるで、答えられない手塚のほうがおかしいとでも言いたげな顔をしていた。
「手塚は、あまり人に関心がないよね?」
「そうかもしれないな」
手塚の曖昧な答えに、乾が笑う。
「かもしれない、じゃないよ。全然関心ないくせに」
そんなつもりは、自分には無いのだから、仕方が無い。
そもそも、何にでも誰にでも関心を持ちすぎるお前がおかしいのだ、と手塚は思った。
「俺は初めて会った瞬間から手塚の印象は強烈だったんだけど、手塚はどうだったのかなと思ってさ」
初めて乾と会ったのは、中一の春。
テニス部に入部したときのはずだ。
だが、正直なところ乾に対して、それほど強い印象をもった覚えは無い。
それでも、ジュニア時代に耳にした名前であったという記憶は、うっすらだが確かにある。
「やっぱり覚えてないんだ」
黙っている手塚を見て、乾は笑い混じりにつぶやく。
何か言い返したかったが、本当のことだから反論できない。
だが、はっきりと乾を乾だと思った瞬間は自分にもあるのだ。
しかし、それを口に出すには少々の抵抗がある。
黙り続ける手塚に焦れたのか、乾はまた別の質問を口にした。
「俺が最初に手塚を意識したの、いつかわかる?」
「さあ、わからんな」
「中3の関東大会の1回戦」
「…跡部との試合か?」
「そう、あの試合」
乾は手塚から視線を外し、どこか遠くを見るような眼をして言った。
「何度も、夢に見た」
乾が、苦笑いのような表情で手塚に語りかけた。
「ほら、手塚」
「なんだ?」
「俺の手、震えてるのわかる?」
手塚の目の前に、乾の右手が開かれる。
その指先は、確かに小さく震えていた。
「あのときのことを思い出すと、こうなる」
手塚は一瞬息を止めた。
「二年も経つのに…か」
「いや、時間が経ってからだな。こうなったのは」
知らなかった。
自分がそんな思いを乾にさせていたことを。
唇を噛む手塚の顔を見て、乾は開いていた手を閉じ、ペンを持ち直した。
「あれで自覚したよ。手塚は俺にとって特別な意味がある存在だって」
乾の言葉に、胸の奥が熱くなる。
こんな風に自分の内側に強く作用するのは、いつだって乾ひとりしかいないのだ。
「俺は…」
声が詰まって、先が続かない。
「ん?」
乾は、小さく首を傾げて、こちらを見ている。
重い口を開いて、手塚はもう一度言葉を吐き出した。
「俺がお前を最初に意識したのは、ランキング戦で当たった時だ」
「レギュラー復帰したときの?」
「そうだ」
手塚は頷く。
「あの短期間で、あれだけ力をつけて戻ってきたお前に、正直驚いた」
「その割には、簡単に負けた気がするけど」
「だが、それまでにはなかった手ごたえを感じたのは事実だ」
「うれしいね。そう言ってもらえると」
乾の眼が優しく撓む。
「俺の方が少し早いな」
「何が?」
「お前を意識した時期が」
「…何を勝ち誇った顔してるわけ?」
乾があきれたように笑い出した。
「言っておくけど、好きになったのは、俺の方が先だから」
「…えらそうに」
手塚も一緒に笑いながら思う。
確かに好きになってくれたのは、お前が先かもしれない。
だけど、お前は知らないだろう。
俺が、今どれほどお前が好きか。
お前の予測をはるかに超えて、お前を必要としているのは、俺のほうだ。
それを知られてしまうのは悔しいから、決して言葉にはしないけれど。。
お前に気づかれてしまうのはおそらく時間の問題なのだろう。
お前が呼ぶ声に、逆らえたことなど一度もないのだ。
「乾」
手塚の呼ぶ声に、乾は再び、小さく首を傾けた。
「そのうち、気が向いたら教えてやる」
「何を?」
「お前を、はっきりお前だと思ったときを」
「今じゃ駄目なのか?」
「駄目だ」
「なんで?」
「そんな気分じゃない」
不満げな乾に、手塚は片眉を上げて答えた。
「なんなら、今から試合でもするか?俺に勝てたら教えてやってもいい」
そう言ってやると、乾は少し目を細めて手塚の顔を見た。
「可愛くないよ、手塚」
「それで結構だ」
一瞬悔しげな顔をした後に、乾はにやりと口の端を上げて笑った。
きっといつかは、この男に全て知られてしまうだろう。
だが、今だけは。
ほんの少しくらい、抵抗させてもらおう。
これくらいしか、お前に勝てるものはないのだから。
2004.3.9
高校生乾塚。
手塚は乾に全面降伏してるんですねー。馬鹿だねー。ちょっと手塚が可愛く微笑んでやれば、乾はメロメロになるのにね。
手塚が乾を「乾」だと意識した瞬間って実はすっごいどうでもいいことだったというのがMy設定。そのうち何かのついでに手塚に告白させときます(笑)