Misprogrammed Day

雨が降っていた。

暗く静かな朝だった。
かすかに、車が水を跳ね上げて走る音だけが聞こえる。
カーテンを開けると、まるで水のシャワーみたいな気持ちの良さそうな雨が、煙るように降っていた。
眼鏡をかけていても滲んで見える風景を、乾は、黙ったままで眺めていた。

雨の朝は、嫌いじゃない。
ましてや、それが休日なら。

自主トレの予定はあっさりとあきらめ、一番会いたい相手の顔を思い浮かべる。
ほとんど無意識に携帯電話に伸びた手を、ふと止める気になったのは、窓ガラスを伝って流れる雨粒に目が奪われたからだろうか。

ガラスの内側から、水滴を人差し指で、たどる。
冷たくて硬質な感触が、気持ちいい。

ああ、似てるかもな──。
乾は、静かに笑う。

ずっと思っていた。
きっと手塚は、その身体の中には、冷たい血が流れてるのだろうと。
澄み切った瞳の色も、歪んだところが一つもない真っ直ぐなシルエットも、気軽に触れることを許さないほどに、冷たく綺麗だ。

何も欲しがらない。
何も恐れない。
ただ、一人立つ。
手塚はそういう人間だと、信じていた。

それでも尚、触れてみたい。
あの冴え冴えとした、刃物にも似た強い視線を自分に向けさせてみたい。
たとえ伸ばした指先が、切り裂かれてもいい。
何度も、そう思った。
それほどに手塚は、自分をそそる。

乾は窓に背を向け、もう一度ベッドに深く座り込み、白いシーツと揃いのカバーのかかった枕を見下ろした。
あの頃は、ここに手塚が横たわることなど考えられなかった。
今でも時々信じられないと思うことがある。

手塚と何かを共有する。
そんなことが現実になるとは思えなかった。
しかもテニス以外で──。

好きだから、触れたいと思ったのか。
触れてみたくて、好きになったのか。

もう今となっては、その境目は曖昧で思い出せない。
ひょっとしたら、ただの怖いもの見たさの好奇心だったのかもしれない。

乾はもう一度、窓に目をやる。
細かい雨粒は、まだ窓を流れていく。
当分、この雨は止まないだろう。
少し肌寒い部屋の温度が、かえって居心地良く感じた。

普段の手塚は、少しだけ自分より体温が低い。
身長差は5cmだが、体重差は10キロ近くあるだろう。
肩も腕も腰もすべて、自分より細くて、制服を着ていると華奢に感じるほどだ。

木綿のシャツごしに肩を抱くと、薄い布に体温を奪われたように、その手のひらに伝わるのは、冷たくて硬質な感触。
さっき、指でたどったガラスのように。

でも、今は知っている。
どうすれば、その肌を熱くできるか。

せつなげに洩らす吐息と、激しく打つ鼓動と、しがみつく腕の力。
冷たいはずの手塚が、自分の腕の中で変わっていく時間。
それが好きだ。

なぜ、手塚でなければ、ならなかったのか。
手塚だけが、自分を惹きつける。
手塚にだけ、心が騒ぐ。
手塚だけを欲しいと、そう思った。

そして、手塚を抱いた。

手塚が好きだと言ってくれる度に、息苦しくなるほど嬉しくて、何もかも忘れるほど、手塚を求めてしまう。
それでもやはり、わかりはしないのだ。
手塚でなければなかった理由。
手塚一人を追いかける自分を。

でも今は、どうでもいいのかもしれないとも思う。
手塚を好きだという事実。
おそらく、それ自体が答えなのだ。

乾はふと我に返り、枕元に置いたままの腕時計を確かめる。
どうやら目が覚めてから小一時間ほど、ぼんやりしていたたようだ。

降り続ける雨のせいだろうか。
……らしくないな。

乾は、一人笑う。
さあ、顔を洗って、着替えをして、遅い朝食を取ろうか。
きっと母親に嫌味を言われるだろうけど。
電話をするのは、そのあとでいい。

そう思って立ち上がろうとしたとき、机に置いてあった携帯電話が鳴った。
ただ一人のために設定してある着信音が、誰からかかってきたかを知らせてくれる。
手を伸ばし、携帯を開く。

「手塚?どうした?」
「いや、別にたいした用じゃない」
普段よりも、少し硬質な声がした。
「じゃあ、なに」
「ちょっと声が聞きたくなっただけだ」

珍しいことを言うんだな、と思う。
「らしくないね」
そういうと、電話の相手は少し黙り込む。

「…そうだな」
「もし、予定がないなら会わないか?」
「予定は、特にない」
「じゃ、決まり。会おうよ」
「わかった」
一時間後に会う約束をして、電話を切った。

まったく。
手塚らしくない。
用もないのに、電話?
声が聞きたい?
どういう風の吹き回しなのか。

今日は、俺も手塚もどうかしている。
これも全部、この雨の効用なのか。
乾は、小さく笑う。

窓の外は、まだ雨が降り止まない。
どうか、このまま降り続いて欲しい。

手塚の上に。
俺の上に。
静かに、ひっそりと優しい雫を降り注いでいて欲しい。
冷えた身体を温めあう口実を、俺達に与えてくれるように。


──やっぱり、らしくないな。
乾は声を殺して笑いながら、窓を開けて雨粒を手の平に受けた。
その水滴はどこまでも柔らかく、乾の指先を濡らしていった。

2003.6.9

タイトル元ネタ
ケン・イシイ アルバム「SLEEPING MADNESS」から 「Misprogrammed Day」
今日に限って、なにか違う って感じのタイトルが欲しかった。仮タイトルは「雨」だったんだけど、ストレート過ぎなので変更。