最優先事項
さらさらした髪の毛の中に指を入れて、かきまわしたい。滑らかな白い首に、唇を押し付けたい。
両腕を細い腰に回して、力いっぱい抱きしめたい。
もうなんでもいいから。
とにかく、さわりたい。
声が聞きたい。
ああ、かなりキてるな、俺は。
「ちょっと、乾。1人でトリップしないでよ」
不意に名前を呼ばれて、乾は机に伏せていた顔を上げた。
「…呼んだか?」
隣の席に座っていた不二は、呆れたような笑顔を浮かべている。
「呼んだよ。何回も。何をボケてるのさ」
ボケとはひどい言い草だと思いながらも、確かにぼうっとしていたので、ここは逆らわずに謝っておく。
「悪い。ちょっと考え事」
そう答えると、不二は意味ありげに唇の端だけを持ち上げた。
「…何を考えてたかは、想像がつくけどね」
「不二」
これは、バレてる。
乾は確信した。
「あのー、話が全然見えないんですけど、先輩方」
「ああ、ゴメンね。桃。ちょっとこっちの話」
向かいの席に座る桃城が、困ったようなひきつった笑いを浮かべている。
その隣に座る海堂も、居心地が悪そうに上目遣いでこちらを見ていた。
放課後の図書室。
乾と不二が並んで座り、その向かいの席に桃城と海堂が座っている。
後輩二人の前には教科書とノート、あとは参考書が数冊広げられていた。
「別にいいっすけどねえ。真面目にやってもらえれば」
桃城が、何か不満がありそうに頬杖をついた。
「お前ね。教えてもらってる立場で偉そうにするなよ」
「へへ。すいません。先輩達だけが頼りっすから、お願いしますよ」
桃城は、すぐに抜け目なく笑顔を作る。
この後輩は、こんな風にいつも調子がいい。
来週から始まる試験の為に、今週は部活は全面禁止。
今回はテニス部全員に、一科目でも赤点をとった者は、そのあと2週間の部活停止という処分が下されることになっている。
さすがにレギュラーがそんな事態に陥っては、今後の試合にも影響するということで、赤点を取る可能性のある部員には成績優秀な者が、責任を持って勉強を見てやるということが決定された。
そして一番不安がある桃城と、少しだけ不安がある海堂を任されたのが、乾と不二だった。
「で、桃はもう問題は解けたのか?」
「う。えーと、少し待ってもらえます?」
調子のいい後輩は、慌てて、また自分のノートに目を落としペンを走らせた。
「しかし、なんで俺らの担当が乾先輩と不二先輩なんすか?」
「何?桃、僕と乾に不満があるわけ?」
にっこりと笑う不二を見て、桃城がぶんぶんと首を横に振った。
「と、とんでもないっす!光栄っすよ!」
場も考えずに大きな声を出す桃城に、隣に座る海堂が文句をつける。
「…うるせえんだよ、てめぇは。少しは黙っていらねえのか」
「なんだとぉ?このマムシ野郎!」
睨みあう二人を前に、不二がニコニコ笑いながら割って入る。
「はいはい。君達、ここで騒がないの。他の人の迷惑になるからね」
軽くいなされた二人は、しぶしぶおとなしくなる。
不二に逆らうのは、さすがにこの二人にも出来ないらしい。
まあ、それが賢明だろう。
乾は手持ち無沙汰で、持っていたシャープペンシルをくるくると回す。
「しょうがないだろう、桃。大石は英二にかかりきり出し、手塚は俺たちほど暇じゃないし。ま、運が悪かったと思って諦めてくれ」
「そうだよ。元々君達に問題がなければ、こんな羽目にはならなかったんだから」
恨むなら、自分だよ。
そう言って不二は笑った。
可愛く見えるはずの小首を傾げる仕草が、逆に恐ろしい。
「…っす。一応…解けました」
そう言って、海堂は自分のノートを恐る恐る乾に手渡す。
「よし。見せてもらうよ」
渡されたノートを見て、自分が出した10問ほどの問題を、乾は細かくチェックしていく。
「海堂、問題なし。全部正解」
そう言ってやると、海堂は素直にほっとした顔になった。
海堂は感情表現が下手なだけで、根はまっすぐで素直な人間であることを、乾は良く知っている。
「これなら、試験も大丈夫だ。俺が保証する」
「…ちょっと、乾先輩。それ、俺に対する態度と違い過ぎません?」
桃城はいかにも面白くなさそうだが、海堂とは逆に桃城は見た目の印象ほど、単純な人間ではないだろう。
「言っておくけど、海堂は一度も赤点を取ったことがないんだ、桃。物理が苦手でちょっと不安があるから見てやってるだけ。お前みたいに3科目も爆弾を抱えてるわけじゃないんだから」
桃城はぐっと言葉に詰まった。
その横で、海堂は勝ち誇ったような顔をしている。
一歳下というだけで、ずいぶん子供に見えるから不思議だ。
「ほら、桃。人のことはいいから、早く問題を解いて。君は3科目分見なきゃいけないんだからね」
「…わかりましたよ、やりゃあいいんでしょう?」
不二に促されて、桃城はぶつぶついいながら問題と格闘し始める。
その隣で、乾の方は、念の為に試験に出そうなところを海堂に教えていく。
桃城と違って、海堂は生真面目に教科書に線を引いている。
「もう一度、そこをちゃんと読んでおくといい」
そう言うと、海堂は少し頭を下げてから、その部分を読み始めた。
また手が空いて、乾はすることもなくペンをくるくると回し始める。
そうしている間にも、頭の中には、手塚の顔が浮かんでいた。
ここしばらく、手塚と二人きりで会ってない。
当然のことだが、ずいぶんと手塚に触ってないことになる。
──会いたいな。
心底そう思ってため息をつくと、向かいの桃城が、すかさず抗議の声をあげた。
「乾先輩、目の前でため息はないっすよ」
「悪い」
口先だけで謝ってみたものの、どうも気が入らない。
「重症だな」
隣で不二が笑っている。
乾は、反論する気力もない。
ああ、そうだよ。
重症だよ。
もう一度ため息をつきそうになったとき、乾のポケットの中で携帯電話が振動した。
「ちょっと、ごめん」
乾は、すぐに立ち上がり、一旦図書室を出た。
確かめて見ると、メールが一通届いていた。
「あれ?」
乾は、小さく声を上げた。
3人が待つ席へ、乾は急いで戻ってきた。
その様子を、六つの目がじっと見ている。
「ごめん、不二。あとは任せていいか?急用ができた」
「…いいけど、この借りは高くつくよ?」
不二はこれ見よがしに、ニッコリと微笑んだ。
どうやら感づいたようだと、乾は思う。
後は怖いけれど、今は考えないことにする。
乾は手早く帰り支度を始めながら、後輩二人に告げた。
「悪いけど、俺は一足先に帰るから。わからないことがあったら不二に聞いて」
「え?ちょっと乾先輩、そりゃずるいっすよー」
桃城はペンを握り締めて、不満を顕わに猛抗議を始めた。
乾は構わず支度を続けたが、にやつきそうな顔を引き締めるのは、忘れなかった。
「乾先輩の裏切りもの!」
叫ぶ桃城に、不二がふっと笑いながら言った。
「二人とも、乾はこれからデートだから許してやってよ」
「え?」
「は?」
後輩二人が、同時に固まった。
「ま、そういうことだから」
乾は、それだけをいうと図書室を後にした。
背後からの、絶叫するような「まじっすかあ?」っという桃城の声に送られながら。
校舎を出たとたん、待ち合わせの場所まで、全力失踪する。
一分でも、一秒でも早く顔が見たかった。
息を切らせながらいつもの児童公園に着くと、ベンチに座り教科書らしきものを広げている姿が目に入った。
「手塚!」
声を掛けると、手塚がゆっくりと自分の方を向く。
ああ、手塚だ。
乾は笑いながら、隣にどさっと腰をおろした。
「思ったより早かったな」
「…そりゃ…もう、全力で…走って…きたから」
返事をしたいが、息が上がって言葉が繋がらない。
「そんなに急ぐ必要もないだろう」
冷静な手塚の声に、乾は心の中で反論する。
俺が、一刻も早く会いたかったんだよ。
口に出さずに、肩で息をする。
手塚は黙って立ち上がると、近くに設置してある自動販売機からスポーツドリンクを1本買って戻ってきた。それは、いつも乾が好んで飲んでいるものだった。
「飲め」
差し出されたペットボトルを受取り、あっという間に喉を鳴らして全て飲み干す。
「ありがとう」
ようやく、呼吸が整ってきた。
日頃から心肺機能を鍛えてるお陰だ。
──と思うことにした。
「手塚からメールが来ると思わなくてさ。驚いたよ」
「俺の方も、予想より早く済んだから」
手塚は今日、肩の為に通っているクリニックで検査を受ける日だった。
それが予定より早く終わったので、連絡をくれたらしい。
普段、滅多にそんなことをしてもらったことがない。
よっぽど今日の手塚は機嫌がいいと見える。
「桃城と海堂は?」
「うん、悪いとは思ったけど不二に任せてきた」
「大丈夫か?不二1人で」
「不二だからね。余裕だよ」
「お前は、なんて言って出てきたんだ?」
「ちょっと急用が出来たって」
手塚は少し眉間にしわをよせた。
「大丈夫だって。心配しなくていいから」
乾がそう言っても、手塚はまだ眉を顰めたままだ。
間違っても手塚とデートだなんて、口にしてないから。
そう言ってやろうかと思ったが、せっかくの上機嫌を損ねてももったいないので黙っておく。
「これから、どうする?」
「何も考えてなかったが」
乾は、空になったペットボトルを、ベンチのすぐそばのゴミ箱に放り込む。
「うちに来て、試験勉強でもしない?」
「そうだな。そうするか」
珍しく素直に誘いを受けることに乾は少しだけ驚き、それからゆっくりと笑顔を作った。
チャンス到来。
「今日も誰もいないから、ゆっくりしていってくれ」
心の中の邪な欲求をとりあえず隠して、乾は言った。
今日だけは、不二にどんなに高い借りを作っても構わない。
「不二、感謝」
疲れきった顔をして乾の腕の中で眠る手塚の髪をくしゃりとかき回しながら、乾は1人満足げに微笑んでいた。
2003.12.14
乾を信じた手塚がバカ。乾の部屋についた30分後には服を脱がされたでしょう。
一度に4人も出すと、会話を書くのが面倒だということがわかりました。いつも二人きりの話ばかり書いてるからなあ。未熟ですね。精進します。