青金石
月が出ていた。わずかに開いた窓から、冷たい風が吹き込む。
火照っていた身体から、少しずつ熱が引いていく。
気持ちがいい──。
目を閉じて息を吐いた。
急に強い風が吹き込み、慌てて振り返ると、薄明かりの中白いシーツの上で、肩がかすかに上下しているのが見える。
大丈夫。
まだ眠っている。
乾は安心して、音を立てないように窓を閉めた。
そばに近寄り、枕に半分顔を伏せたまま眠る手塚の髪を、そっと指で梳く。
さらりとした感触が心地いい。
触れた頬はすでに汗がひいて、ひんやりとしている。
さっきまで熱に溺れたように喘いでいた苦しそうな表情は消え去り、整った顔は、まるで作り物のように静かだ。
乾は、手塚の鎖骨のあたりに小さな鬱血を、ひとつ見つけた。
また後から怒られるなと、小さく笑った。
今夜はどうしても、手塚に、ここにいて欲しかった。
日付が変わるその瞬間に、そばにいたかった。
誰より早く、おめでとうと告げるために。
枕元の腕時計で時間を確かめた。
そのときまで、まだ5分ある。
乾は自分の机の引出しを開け、しまっておいた小さな包みを開ける。
丁寧に何重にもくるまれた紙をほどくと、そこには親指の先ほどの大きさの楕円形の石があった。
凍えるほど澄み切った夜空を、そのまま切り取ったような深い蒼と、所々に煌くかすかな金色の欠片。
それは目の前で眠っているこの相手に、とても良く似た光沢を放っていた。
その身体を抱くたびに、思っていた。
誰より大切で、かけがえのない無二の存在を、自分の手で汚してはいないか。
まれなほど美しいその存在に目に見えない傷をつけているのではないかと。
だが、それはおそらく杞憂だろう。
この極めて純度の高い、手塚という人間に、自分ごときが干渉できるはずはないのだ。
どんなに自分が手塚を侵そうとしても、何かを奪おうとしても、それは無駄なことだ。
今なら、わかる。
どんなに近くに見えても水面に映る月を手にすることが出来ないように。
それでいい。
だから、手塚をずっと好きでいられる。
静かに眠り続ける手塚の左手を細心の注意を払って、そっと開く。
そして、その中に、小さな青い石を滑らせた。
長い指が、ぴくりと動く。
小さな石を包むように、ゆっくりと指が閉じられた。
もって生まれた天賦の才と、日々の努力で培った強靭さ。
長い時間をかけて手塚自身の意思が作り上げた、奇跡のような形。
手塚という名の、綺麗な結晶。
だから、手塚に良く似たこの石を贈ろうと決めた。
乾は手塚の隣に座ったまま、腕時計の秒針を見つめる。
一人だけのカウントダウン。
5、
4、
3、
2、
1
秒針が一瞬止まって見えた。
「誕生日おめでとう、手塚」
乾は低い声で囁いた。
そして、気づいた。
眠っていたはずの手塚の肩が、小さく揺れている。
「…起きてるときに言わないと意味がないだろう」
手塚は、くすくすと笑っていた。
「寝たフリしてたわけ?人が悪いな」
乾も笑いながら、手塚の額にかかる前髪をかきわけた。
閉じていたまぶたが開き、穏やかな瞳が乾を見上げる。
「お前が言えた立場か」
ふっと笑った後、手塚はゆっくり自分の手を開いた。
「…この石は、なんていうんだ?」
「青金石。瑠璃色の瑠璃ってこれのことだよ」
「そうか」
手塚はそう言って、じっと掌の上の石を見つめる。
「綺麗だな」
「うん。お守りになるから、いつも持っていてくれると嬉しい」
乾の言葉を聞いて、手塚は静かに頷いた。
「わかった。大切にする」
「おめでとう、手塚」
今度はちゃんと手塚の耳に届くように、
乾は少し目を細めて、祝福の言葉を口に出す。
「ありがとう」
少し微笑んでから、手塚は改めて手の中の小さな石に視線を落とした。
そしてよく見ようとするように、灯りにかざす。
手塚の掌の上で、青い石はきらりと光を反射させた。
空を意味する美しい別名を持つその石は、手塚にとても良く似合っていた。
2003.9.12
乾が手塚に贈った石って何かわかりますか?タイトルの青金石って、あまり聞かない名前じゃないですか?実はコレ、ラピスラズリのことです。空、もしくは群青という意味があります。10月の誕生石はオパールなんだけど、手塚にオパールってちょっとねえ。婚約指輪贈るわけじゃないんだし。で、ラピスラズリにしてみました。青い石が似合いそうなので。