乾の失敗

朝から肌寒く薄暗い日だった。
なんとか、朝練はいつも通りこなすことは出来たけれど、天気予報では午後から雨になるはずだ。
澱んだような空の色は、それが恐らく外れないことを、青学テニス部員達に伝えていた。
案の定、昼休みに入る直前に雨粒が落ちてきた。
とうとう来たかと、手塚はガラス窓越しに空を見上げ、この分では放課後まで降り続けるだろうと思った。

昼休みに入ると、昼食を済ませたらしい乾が、手塚の教室に顔を見せた。
「やっぱり降ってきたね」
「まあ予想はしていたがな」
乾は持ってきたノートをパラパラと捲る。

「今日はどうする?いつもの雨天時のメニューでいい?」
「お前に任せる」
「わかった。じゃあ部活でね」
軽く笑うと、乾はノートを閉じて出て行った。

乾はイレギュラーなことがあると、必ずこうやって自分に会いに来る。
そして、何かと忙しい手塚を、サポートしてくれるのだ。
これ見よがしではなく、とてもさりげない形で。

そんな気遣いに、甘えてばかりでいいのかと思うこともあるが、そうした方が乾が喜ぶことを体験的にわかってきたので、今は素直に頼らせてもらっている。
きっと今日の雨も、乾は何か新しいことを試せるいい機会だとでも考えているのだろう。
任せると言ったときの乾の笑顔を思い出して、手塚は誰にも気づかれない程度に微笑んだ。


予想通りに、放課後になっても雨は止まなかった。
小降りなら外でランニングをするのだが、今日の雨ではそれは無理だ。
体育館は他の運動部が使用しているので、許可を貰って、軽いランニングと柔軟程度で終わりになる。
あとは、レギュラー陣だけが部室に残ってのミーティングとなった。
普段は中々そういう時間が取れないので、こういう時には必ず行われる。

最初は、真面目に反省会のようなことをやるのだが、そのうちただの雑談が始まることも少なくない。
手塚が参加していないときには、誰かがこっそり持ち込んだ菓子をつまみながらということもあるらしいが、今日のところはそれはなしだ。
雑談が始まってしまえば、あとは各自勝手に帰っていいことなっている。
一人減り二人減りして、最終的に残ったのは乾と不二と手塚の三人だけだった。

乾と不二はお互い気が合うらしく、普段から割とよく二人で話をしている。
今日も二人で、手塚にはあまりよく分からない話題で盛り上がっていた。
だからと言って、手塚が二人に取り残されているわけではない。
むしろ上手いこと二人に誘導され、普段なら口にしないことを言わされたりして、乾と不二に散々遊ばれているような状態だった。

そのうち笑うのに疲れたのか、ふと部室の中に沈黙が流れた。
しんと静かになった部室の中に、雨の音がパラパラと響く。
今まで賑やかだった場所に、不意に訪れる静寂みたいなものを、手塚は決して嫌いではない。
窓から見える景色は薄く霞んで、いつもの風景とは違って見えた。

「静かだね」
不二は穏やかな笑みを浮かべて、視線を外に向けていた。
「ああ」
「明日まで降るのかな」
「…どうだろうな」
「明日の天気予報はどうだったっけ」
「乾ならわかるだろう」

返事はない。

二人同時に乾を振り返った。
「あ、寝てる」
乾は、愛用のノートを腕の下に置いたまま、机の上に突っ伏していた。
広い背中がゆったりと上下していて、どうやら熟睡しているようだ。

「いつのまに…」
不二はくすりと笑い、乾の頭の上から覗き込むようにしていた。
それに少しだけ、どきりとした。
「乾、完全に寝てるよ」
「そのようだな」

慢性的な睡眠不足の乾は、時々電池が切れたように、すとんと眠ってしまうことがある。
だが、それは大概自分と二人でいるときの話であって、今日のように部室の中で眠ってしまうなんて滅多にないことだ。
よっぽど疲れているのか、もしくはリラックスしていたのか。
どちらにしろ、今ここに自分以外の人間がいることに、手塚はひどく落ち着かない気がしていた。

「こんなところで寝たら風邪を引くぞ」
「そうだね。かわいそうだけど起こそうか」
不二は立ち上がると、乾のすぐ隣りに立ってから珍しそうに乾を見下ろしていた。
「…こうやって見ると、乾もちょっとだけ可愛いね」
にっこりと笑って手塚にそう言うと、不二は何も知らずにうつぶせて眠る乾の後頭部を、さわさわとなで始めた。

「いーぬい、起きて。風邪引くよ」
それでも起きない乾が面白いのか、不二は何度も頭をくりくり撫でている。
「乾ってば、起きなよ」
普通に起こせばいいじゃないかと言おうとしたとき、乾の肩がぴくっと動いた。

「…手塚?」

なでていた不二の手が止まる。
そして、開きかけていた手塚の口が勝手に閉じた。

「…ハズレ」
不二は、ふふっと小さく笑うと、握った手で乾の頭頂部をコツンと殴った。
「いて」
ゆっくりと頭が持ち上がり、半分寝惚けたような乾の顔が見えた。

「…殴って起こさなくても…」
「さっさと起きないからだよ」
それに僕は手塚じゃない、と不二は笑いながら抗議していた。
「だからってグーで殴るか?普通」
徐々に目が覚めてきたのか、乾はいつもの人をからかうときみたいな、口の端だけの笑いを浮かべている。

「グーでなんか殴ってないよ。ちょっと突付いただけ」
「嘘付くなよ。ゴンっていったぞ。な、手塚」
二人の視線が、同時に手塚に向けられた。


それから、乾は、とてもゆっくりとした仕草で首を傾げた。
「…なんで手塚、真っ赤になってるんだ?」



さて、こいつを何発殴ってやろうか。
静かに立ち上がった手塚を見て、不二が笑いを堪えて肩を震わせている。
これから何が起きるかわかっていない乾は、まだ不思議そうに首を捻っていた。


雨はまだ止みそうにない。


2005.02.28

先日のチャットで『眠る乾の後頭部を手塚がなでなでするといいなー』と発言したところ、『それなら、ホントは不二が触っているのに、寝惚けた乾が「手塚…?」とか言っちゃうのが萌えます』って書いて下さった方がいたのですよ。そ、それは可愛い!萌える!と興奮にしてネタにさせてもらう許可を頂きました。可愛いシチュエーションですよね!

乾は自分が大変なことを口走った自覚がありません(笑)。この後こってり叱られるがいいさ。
で、手塚は不二様と別れたあとで、乾に「ごめんね」ってちゅーされちゃうといいよ。乾は自分が悪くなくても平気で謝れる男です。相手が手塚なら尚更ね。

快くネタを提供してくださったCIMAさん、どうもありがとうございました。アホな話になってしまってごめんなさい。