空の青、水の青
「乾」良く通る声が俺の名前を呼んでいる。
振り返るためには、ほんの少しだけ覚悟が必要だ。
「何?」
朝錬を終えて教室に戻ろうとしていた足を止め、出来る限りのさりげなさを装って振り向いた。
まだジャージ姿のままの手塚が、部室の前に立っている。
汗で濡れた白い額に、前髪が数本張り付いていた。
「今日、部活の後に時間を取れるか?」
「うん。大丈夫だけど、今日は何?」
「練習メニューの組み直しなんだが」
「わかった。つきあうよ」
「悪いが、頼む」
それだけ言うと、手塚はくるりと向きを変え部室のドアを開けて中へと消えていく。
呼び止めたい衝動を飲み込んで、変わりに愛用のノートを開いた。
練習メニューの組み直し。
俺は、わざわざ書き留めるほどでもないことをそこに書き込んだ。
穏やかに晴れた日の、午後の授業は辛い。
昼食後には、ただでさえ眠くなるというのに、やたらとゆっくり喋る癖のある教師の授業に、俺は何度も欠伸をかみ殺した。
目は悪いけれど、背が高いから席はいつも一番後ろ。
それをいいことに、退屈な授業の時は自分の好きなことをする。
こんなことをしていても成績は、いつもそれなりだ。
頭がいいというよりは要領がいいのだろう。
机の上に、いつも放さず持ち歩いているノートを開く。
こつこつと貯めこんだ詳細なデータの大半は、手塚に関すること。
この春にレギュラー落ちしてからは、加速度的に増える一方だ。
入部したての1年に負け、それまで一度も負けたことのない後輩に負けてのレギュラー落ちは正直、堪えた。
手塚と不二を倒すことに気を取られたつもりはないが、結果としてそうだと言われても反論は出来ない。
もう一度始めから自分を鍛えなおし、データにも更に磨きをかける。
新たな決意は、強い原動力となった。
だが、自分がレギュラーでなくなった事実は、予想していなかったところにダメージを与えた。
手塚と同じ場所にいられない。
それがこんなに辛いなんて。
窓の外に目をやり、視界の端にテニスコートを捉える。
早くあそこに行きたい。
行けば、思い知らされることはわかっているけれど。
開いたノートに刻まれた「練習メニューの組み直し」という文字を、俺は何度も何度も読み返していた。
部室のドアを開けると、中には大石しかいなかった。
「乾、今日は早いな」
「ああ、そうみたいだな」
俺のいる教室は校舎の端のほうにあるため、大抵みんなより出遅れて部室に着くことになる。
今日に限って早く来られたのは、気が焦っていたからなのかもしれない。
一足先に大石が部室を出て行くと、入れ替わりに手塚が入ってきた。
そのとたん、部室の中の空気が変わる。それは俺の気のせいばかりではないだろう。
「早いな」と短い言葉をかけられて、「うん」と、更に短い返事を返した。
着替えをしながら、横目で手塚を見る。
手塚の長い指がボタンを外し、シャツが肩から滑り落ちた。
細い首だ。
それに、すごく白い。
意識した途端、後ろめたいほどに鼓動が速くなる。
見てはいけないと思いながら目が離せない自分が怖い。
「…なんだ?」
手塚に声を掛けられ、ぎくりとした。
「いや、別になんでもないんだけど。白いなって思ってさ」
見ていたことに気づかれた気まずさに、少しぎこちない返事になった。
「お前も白いほうだと思うが」
手塚は少しも気にした様子はなく、普通に着替えを続ける。
「まあね。同じクラスの奴によく言われる。テニス部のくせに白いって」
「俺も不思議と焼けないな」
「赤くはなるけどね」
会話をしながらも、心臓はドキドキしたままだ。
不自然ではないだろうか?
気づかれはしないだろうか?
そればかり考えていた。
「じゃ、先に行くよ」と声を掛け、部室を後にした。
ドアを締めると、いきなりの青空に一瞬目が眩んだ。
――大丈夫。気づかれてはいない。
ようやく目が明るさに慣れ、空を仰いだ。
――でも、本当は気づいて欲しいんじゃないのか。
目に痛いほどの青が、どこまでも広がっていた。
初夏とはいえ、ずっと日の当たる場所にいると、汗がひっきりなしに額から流れる。
さっきから何度汗を拭いたかわからないが、時折吹く風に、ひと時だけ暑さを忘れた。
「乾先輩、サーブ練習終了しました」
後輩に声をかけられ、すぐ次の指示を与えた。
レギュラー落ちしてからは、俺の役目は自分の練習より他のレギュラーのサポートと後輩への指導が中心となった。
別にそうしろと誰かに命令されたわけではないが、それが今の自分にはふさわしいと納得している。
レギュラーでなくなるとは、こういうことなのだと思う。
あのジャージに当たり前のように袖を通していたときには、忘れていたが。
最初はただ負けたことが悔しかった。
手塚や不二と違って、俺は簡単にレギュラーの座を手に入れたわけではない。
もともとの器が、あの2人と俺とではまるで違うのだ。
どんなにあがいても、彼らと自分の差は容易に埋まるものではない。
遠回りに見えようと、結局は、ひとつひとつ努力を積み重ねていく以外に方法はなかった。
そうやって、やっと掴んだレギュラーの座を守りきれなかった自分が。ふがいなかった。
だが、いつまでもそれを悔やんでいる時間は、3年生の俺にはない。
頭を切り替えて、もう一度自分のテニスを見直そうと決めた。
目標が決まればあとはただそこを目指せばいい。
そう思った。
でも、わかったことがひとつあった。
レギュラー落ちしたことで、俺と手塚の間には目に見えない境界線が出来た。
例え実力に差があったとしても、同じレギュラーという枠にいられたときには気づかなかった。
手塚と同じ場所にいることが出来ない。
その事実は、俺に手ひどいダメージを与えていた。
そしてやっと気がついた。
その思いの根本にある自分の気持ちを。
俺の手塚に対する思いは、ただの勝ちたいという執着だけではない。
俺は手塚を好きだ。
自分でもどうしようもないくらい、手塚が好きだ。
レギュラー落ちしてサポート役に回ってから、俺は以前にも増して手塚を良く見るようになった。
少しでも手塚を理解し、分析し、差を埋めたい。
その一心で。
だが、いつのまにか俺が見ていたのは、そういうものじゃなかった。
手塚がボールを追うときの強い視線。
サーブを打つために反らした背中のライン。
汗を拭う手首の細さ。
ユニフォームの襟元から見える鎖骨の陰。
そんなところに目を奪われる俺がいた。
皮肉なものだ。
レギュラーでなくなった俺は、サポートをするという名目で好きなだけ手塚を見ていられる。
それが俺に、この感情を気づかせることになったのだから。
今だって、サーブのフォームを修正するという目的で、手塚に声を掛けられることが許される。
それがものすごく嬉しいと思っている。
俺は馬鹿だ。
どうしようもない馬鹿だ。
手塚に勝ちたい俺と、手塚を好きだと思う俺はどっちがより「俺」なのか。
もう自分でもわからなくなっていた。
部活が終わり、部員が全て帰っても俺と手塚は部室にいた。
手塚に言われた通り、次の大会に備えての練習メニューを、もう一度組みなおす。
例えレギュラーでなくなっても、こういう時には必ず俺も顔を出す。
そういった部分での信頼は、まだ手塚から消えていないのだと思うと安心する。
大石は外せない用事があるからと、先に帰ったために二人きり。
過去のメニューと新しいメニュー案ををつき合わせ、変更点を検討する。
俺の意見を真剣に聞きながら、手塚はノートにメモをとっていく。
手塚の左手がペンを動かし、綺麗な文字を書き込んでいくのを、俺は横からじっと見つめていた。
神経質そうな細い指だ。
指だけじゃなく、手塚は肩だって、首だって、顎だって全部細い。
俺が力を入れてそれを掴んだから、音を立てて砕けてしまいそうだ。
何を考えているんだと思いながら、思考が止まらない。
俺には少し前まで付き合ってる彼女がいた。
相手は同じ学年で、向うから付き合ってくれと言われて「いいよ」と簡単に答えた。
彼女と一緒に話をしていても、肩に手を掛けてキスをしても、いつのまにか頭の中では、俺の相手は手塚に変換される。
それを自覚したとき、彼女とは別れてしまった。
手塚を好きだというこの感情の意味は、つまりはそういうことなのだ。
俺は手塚で欲情できる。
その事実が怖かった。
手塚の薄い唇を塞ぎたいと、その細い身体を抱きしめたいと、俺は本気で思っているんだ。
こんなはずじゃなかった。
手塚は俺の目標で、俺の憧れで、一番高い壁だったのに。
「…乾、聞いているのか?」
手塚の声に、思考が途絶えた。
怖いくらい綺麗な手塚の目が俺を見ていた。
まさか手塚は思ってもみないだろう。
今、俺が手塚に対して邪な感情をもっていることなんて。
それとも、誰より綺麗で厳しいこの目は、そんなことも見透かしてしまうのだろうか。
「乾?」
手塚の唇が動いて、俺の名前を呼んだ。
どくんと心臓が大きく動く。
俺の手が、手塚の手首を掴む。
何をする気だ、と自分が問う。
その時には、もう遅かった。
俺の眼鏡が手塚の眼鏡にぶつかって、かちんと音がした。
そして、俺は手塚に唇を重ねていた。
柔らかい。
それに気づいた途端、俺ははじかれるように手塚から身体を放していた。
俺は今、何をした?
「ごめん。悪かった。どうかしてた」
手塚の顔を見ることが出来なくて、俯いたまま謝る。
「別に…気にしてない」
言葉通り、手塚の声はいつもと変わらず冷静だった。
自分はこんなに動揺しているのに、手塚には何の影響も与えられないのか。
そう思ったら、居たたまれなくなった。
「俺がなんでこんなことしたか、わかるか?」
「…わからない」
「だろうな。手塚に、わかるわけない」
頭の片隅で「やめろ」という声がする。
言ってどうなる?
馬鹿なことをするな、と俺の中の大部分が俺を止めている。
それなのに。
「俺は、手塚が好きなんだ」
手塚のガラス球みたいな、澄んだ目が見つめている。
その冴え冴えとした冷たさに、心臓が凍りつく。
痛い。
喉が渇いて、声なんかまともに出ない。
それでも勝手に口が開いた。
「ずっと前から、手塚のことが好きだった。男同志で自分でもおかしいと思うけど、止められなかった。本当は言うつもりなんかなかったんだ。ごめん。」
一息にそう言うと、全身から力が抜けた。
恥ずかしいくらい手が震えてる。
「何故だ」
「え?」
手塚は俺を見つめたまた静かにそう聞いた。
「なぜ謝る?」
「だって、気持ち悪いだろう?」
「どうしてだ」
「どうしてって、男の手塚に、男の俺が好きだって言ってるんだ。気持ち悪いのが普通だろう?」
自分の言葉が、自分を抉る。
その下らなさに吐き気がする。
だが、手塚の声はあくまで落ち着いたままだった。
「じゃあ、俺も気持ち悪いんだな」
「何?」
「俺のことも気持ち悪く見えるかと聞いている」
「なんでそういう話になる?」
何を言われているのかわからなくて、俺はただ手塚の顔を見ていた。
手塚は少し眉をひそめて、ふっと視線を外に向けた。
「お前はもっと察しがいいと思ってた」
「な…に?」
ゆっくりと手塚が俺の方を向き直った。
何の感情も映さない顔が、信じられない言葉を吐いた。
「俺もお前が好きだ」
手塚は何を言っているんだ。
耳が音を捉えても、言葉の持つ意味がよく飲み込めない。
「ふざける…なよ」
上手く息が出来なくて、声が途切れる。
「俺がふざけたことが一度でもあるか」
ない。
そんなことはわかってる。
だけど、今の俺に他に何が言えたのか。
「嘘だ」
「本当のことだ」
透明な水をたたえたような瞳から目が離せなくなる。
「いつ…から」
「お前が、レギュラーじゃなくなったときに気づいた」
手塚の静かな声が、直接心臓に響いてくる。
「お前が、俺と同じ場所にいない。それが不愉快で腹立たしくて仕方なかった。その理由を探すうちにわかった」
同じ場所、と手塚は言った。
それは俺が感じていたことと同じじゃないか。
「俺はお前が好きだ。多分、お前の言う『好き』と同じ種類だ」
「嘘…だろう?」
「嘘じゃないと言っているだろう。しつこいな。」
手塚はいつものように眉を寄せて俺を見た。
嘘だと言ってくれたほうが、俺には良かったのかもしれない。
だが、もう手遅れだ。
自分でも呆れるくらい、身体が震えてる。
だが、それはさっきとは違う理由から来るものだ。
「…好きだと言われて、お前は嬉しくないのか」
淡々とそう告げられて、息を飲んだ。
「俺は、今お前に好きだと言われて嬉しかった」
そうか。
俺は喜んでいいんだと、ようやくわかった。
そんな当たり前のことを見失うくらい、今の俺はどうかしている。
でもそれは仕方ないだろう?
ありえないことが、目の前で起きてるんだから。
そう。
本当はありえないはずなんだ、こんなことは。
だけど。
絶対にありえないことなんて、この世界にはないのかもしれない。
「…まずいな。俺、泣きそう」
恥ずかしいほど、情けない声が出た。
「俺には笑ってるように見えるが」
手塚は俺を見て、少しだけ微笑んだ。
俺はきっとそのときの手塚の表情を一生忘れないだろう。
「手塚、もう一回。いい?」
「…何をだ?」
「さっきの」
黙って頷いた手塚の眼鏡を外し、自分のも外す。
そして、もう一度唇を重ねた。
そのとき、俺の脳裏には
どこまでもどこまでも青い空が広がっていた。
あの青い空の一片を、俺は手に入れたのかもしれないとそう思った。
2004.5.26
E計画の3333キリリクで書いた「Heavy Rain」と同じ設定上の話です。時間的には少し前の話ということになります。無駄に長くてすみません。もっと短くしたかったんですが上手くまとめられなくて。でも楽しかったです。
基本的な関係は高校生編と同じです。自爆した乾と「実は前から好きだった」という手塚。どうも自分のことでいっぱいいっぱいで、周りが見えなくなってる乾ってのがツボらしいです(笑) で、絶対最後は両想い。幸せな2人を描きたいので、これは外せないの。
この後、2人の初体験ネタも一応考えているんですがちゃんと書けるかなー。例え書いたとしても中学生なので、エロではないと思います。
中学生乾塚を書くきっかけを与えてくださった「ほのか様」に感謝を込めて、この話を捧げさせてくださいませ。