手塚の失敗

部活終了後の部室は、いつも賑やかだ。
菊丸と桃城が、二人揃っているときは特に。
大概、二人とも着替えなんかそっちのけで、どうでもいいような話題で盛り上がっている。
それは今日も例外ではなく、二人は部室全体に響き渡るような大きな声で、雑談を続けていた。

今日の話題の中心は、ある人物の眼鏡について。
菊丸はまだジャージを着たままで、部室の中にある木のベンチに腰掛けていた。
「しっかしさー、乾ってほーんと俺達の前では眼鏡外さないよなー」
「そっすよ。こんだけ長いつきあいなのに、素顔を見せないってのは冷たいっすよねえ!」
一応、桃城はジャージの上だけは脱いでいるが、そこから先が中々進まない。

「にゃーんで?乾は俺らに顔見せるの嫌なわけ?」
菊丸の追求に、乾は、いつものように何を考えているのかわからない笑顔を浮かべた。
「別に隠してるわけじゃない。人前で外す理由がないだけだ。そもそも外したら何も見えないじゃないか」
「えー!嘘だね!ぜーったい隠してる」
「そんなことないって」
「じゃあ、今外して見せてよ!」
菊丸がびしっと人差し指を乾に向けた。

「俺も見たいっす!」
便乗した桃城が目を輝かせて乾を見つめた。
桃城だけでなく、その場にいた部員の8割くらいが乾に視線を集中させていた。
「…俺の素顔なんか、たいして面白いもんじゃないって」
乾は意に介さぬように皆の視線を上手くかわして、平然と帰り支度を続けている。
どうしても納得の行かない様子の菊丸が、更に追撃をしようとしたそのとき、意外な人物が口を開いた。


「確かにたいして面白いものではないな」
部員の視線が一斉にその人物に注がれる。

「へ…?じゃ、手塚は乾の素顔を見たことがあるの?」
菊丸の声と部員の驚愕を浮かべた視線に、冷静沈着が売り物の部長が珍しくうろたえていた。
「あ、いや、まあ…」
「なんで、なんで、なんでー?なんで手塚は乾の素顔知ってるのさー!」

手塚は、焦っていた。
乾の素顔なんか、見飽きるほど見ている。
だが、それを見る機会は、人前では堂々と言えない状況のときばかり。
突発的なことに弱い手塚には、この場をどういい逃れればいいのかが、さっぱり思い浮かばない。
つい口が滑ったとは言え、取り返しのつかない発言に、目の前が少しずつ暗くなる。
嫌な汗が、背中を流れた。

「…僕も見たこと、あるよ」
緊迫した部室の中に響く、静かで優しい声。
全員の視線が、声の方に移動する。

「えー!不二も?」
「うん、英二。僕と手塚はね、もうずっと前に乾の素顔を見たことがあるんだ。ね、手塚」
窓から差し込む光を受けて、不二の茶色がかった髪がキラキラ光っている。
穏やかな笑顔と相まって、その姿はまるで天使のようにも見えなくない。
ただし、そう思ったのは、この場では手塚一人だが。

「どーゆことっすか?」
興味津々と言った感じで、桃城が先を促すと、他の部員も同じように不二に注目する。
当の乾本人でさえ、面白そうに不二を見ていた。

「あのね、中2の終わりくらいのときにね、乾が体育の授業でバスケやっててさ、顔面にボールをぶつけたことがあるんだよね」
「うわ、だっせー…」
菊丸は、正直な感想を口にした。

「幸い、眼鏡は無事だったんだけどね、乾本人は脳震盪起こして保健室に運ばれたんだよ。で、僕と手塚が心配して様子を見に行ったんだ」
「なんで不二と手塚なの?」
「うん。そのときは手塚はもう部長だったし、大石が休んでたので僕が代理でついて行ったんだよ」

言われて手塚も思い出した。
確かに、そういうことがあった。
乾の顔面にボールが直撃し、その衝撃で脳震盪を起こしたと聞き、昼休みに不二と一緒に保健室まで様子を見に行ったのだった。
そういえば、あのときは乾のことを「テニス部員のくせに鈍い奴だ」と思った記憶も蘇ってきた。

「僕も手塚もすごく心配してたんだよ。それなのにさ、乾ときたら鼻の穴に脱脂綿詰めたまま、暢気な顔して熟睡してたんだよね」
不二はその時の乾の姿を思い出したのか、クスクスと笑っている。
「そのときは流石の乾も眼鏡を外していたってわけ」
「ああ、そういえばあったなあ。そんなこと」
乾本人も懐かしそうに笑っていた。

「ちぇー。俺も見たかったなあ。なーんで不二、俺も誘ってくんなかったの?」
「もう忘れちゃったよ。そんなこと」
「それにしても顔面でボール受けるって、鈍すぎません?乾先輩」
いつのまにか話題は、乾の「鈍さ」についてに移り変わっていた。
手塚は心の底から安堵して、ため息をついた。

助かった。
しかし、なぜ、あんな不用意な発言をしてしまったのだろう。
いつもなら、決してそんなことはしないのに。

もしかしたら。
心のどこかで、乾にとって自分だけは特別な存在なのだと、誇示したいと思っていたのかもしれない。
皆の知らない乾を、俺だけは知っているのだと。


馬鹿か、俺は。
手塚は顔が赤くなりそうな自分に腹を立てながら、テニスバッグを肩に担ぐと、眉間に皺を寄せたまた部室を後にした。
だから手塚は知る由もなかった。

「ね、乾。手塚が相手だと色々大変だね」
「ん?そこが可愛いんだけど」
「…ご馳走様」

部室の片隅で、こっそりとそんな会話が交わされていたことを。


2004.05.17

不二様は何でもお見通し。

こういう阿呆な手塚は大好きなのですが、「かっこいい手塚」ファンの方には、まことに申し訳ないです。でもきっと今後も私の書く手塚はこんな人です。
※2004.12.18 再アップ