Home Sweet Home
軽く腕を組み、細い顎を僅かに持ち上げて、手塚は部屋全体にゆっくりと視線を巡らせる。
たったそれだけの動作なのに、舞台上のモデルのようにも見えるから不思議だ。
「家賃はいくらだ」
薄くて形のいい唇から出てきたのは、優雅な仕草とは不釣合いな台詞だった。

「いくらでもいいじゃないか」
手塚に対抗したわけじゃないが、気づけば、いつのまにか乾も腕を組んでいた。
「いいわけがないだろう」
男二人が、がらんとした部屋の中で腕組をしてのにらみ合い。
だが、手塚の堂々とした態度は、招かれた客という雰囲気ではない。
どちらかといえば、手塚の方がこの部屋の主のようだ。

「取りあえず、座らないか。疲れてるだろう?」
先導してソファに座ると、手塚は立ったまま乾を睨みつけていた。
それから、勿体をつけるように時間をかけて、向かい側に腰を下ろした。
普段から口数の少ない手塚だが、今日はいつにもまして、何も言わない。
冷静そうに見えるときの方が、手塚は怖い。
今、手塚の整った顔からは表情というものが消えていた。

この先の展開を予想すると、怖がるよりも先に、笑い出してしまいそうだ。
厄介な事態を面白がってしまうのは、自分の悪い癖だ。
しかし、ここで笑い出したりしたら、どんな報復が待っているかわからない。
乾は笑いを堪え、手塚が自分から口を開くのを、大人しく待つことにした。



手塚が久しぶりに日本に戻ってきたのは、自身の誕生日の前日だった。
過去数回、事前連絡無しに帰ってきたことがある手塚だが、今度の帰国はあらかじめ予定を聞かされていた。
乾が引っ越したことだけを伝え、新しい住所を知らせなかったから、そうするより他がなかったのだ。

空港に迎えに行ったときから、手塚は静かだった。
多分、すぐにも聞きたいことがあるのを、ぐっと飲み込んでいるのだろう。
新居に向かう車の中でも、手塚は殆ど口を開かなかった。
ハンドルを握る乾の横で、まっすぐに進行方向だけを見つめている。
乾が話しかけると、「ああ」とか「そうだ」とか、短く返事をする程度だ。
きっと意地になっているんだろうと、乾は考えていた。
案外、手塚には、そんな子どもみたいな一面もある。

「俺が引っ越したのが、そんなに気に入らないのかな」
ソファの上でも腕を組んだままの手塚に、乾は笑顔を浮かべて話しかけた。
「引っ越すのは別にいい。それはお前の自由だ」
口調はあくまで静かだが、幾分トーンを落とした声には凄味があった。


「だが、一人暮らしのお前に、こんな広い部屋を借りる必要があるのか?」
手塚は、南向きの大きな窓に一度目をやり、それからゆっくりと乾の方に向き直った。
今はカーテンが引かれていて外は見えないが、朝になれば、気持ちのいい光がたっぷりと差し込むはずだ。
窓の向こうは広い公園で、光を遮るものは殆どない。

ここは、以前に住んでいた学生向けのアパートは、まるで違っていた。
最寄の駅からは、成人男子の足でなら、歩いて十五分というところだ。
人に寄っては、やや遠いと感じるかもしれないが、乾には、さほど苦にはならない。
そんなことよりも、駅からその程度の距離しか離れていないのに、驚くほど閑静で環境がいいことの方が重要だ。

このマンションは、まだ新しく、立地条件も文句なし。
なによりも賃貸物件としては珍しいくらいに、セキュリティ面がしっかりしていた。
当然、家賃もそれに似合う金額で、決して安くはない。
それでも、ここを見つけた瞬間に引っ越す決心をしたのは、手塚の立場を考えてのことだ。
手塚が有名人なのは、紛れもない事実であり、プライバシーをどう守るかは重大な問題だ。

そんなことは、いちいち乾が言わなくても、手塚はよく理解しているだろう。
わかっているからこそ、怒っているのだ。
「前のアパートじゃ、色々と都合が悪いんだ。わかるだろ?」
なるべく静かに、ゆっくりと問いかけた。
手塚は少しの間、沈黙していたが、視線を手元に落として口を開いた。
それは、今日初めて見せる表情だった。

「俺のことで、お前に無理をさせたくない」
「別に無理はしてない。誰かさんが、ちっとも呼んでくれないからね。こんなことでもないと、貯めた金を使う機会がないんだ」
乾が笑いかけても、手塚はそれには応えなかった。

「そういう問題じゃない」
「どうしてかな。何も問題はないと思うけど」
埒が明かないと思ったのか、手塚は一度大きく息を吸って、思い切ったように言葉を吐き出した。

「家賃の半分は、俺が出す」
「いらないよ」
多分、そう言い出すだろうと思っていた。
だから、間髪入れずに返事をした。
「乾」
怒っているというよりも、その声は懇願に近い響きだった。

手塚の言いたいことは、わかっている。
乾はまだ大学生で、どんなに割のいいバイトをかけもちしたところで、その収入は、一線で活躍しているプロのテニス選手に比べたら、雀の涙ほどでしかない。
このマンションは、学生にはかなり贅沢な部類だ。
手塚が気にするのも無理はない。
だが、どうしても譲れないものがあることを、手塚にもわかってほしい。

「これは俺の本気の証だ」
顔を上げた手塚と、視線がぶつかる。
「今だけじゃなくて、これから先も、ずっと手塚と繋がっていたい。そのためになら、俺に出来ることは何でもするつもりだ」
どんな些細なことであっても、手塚にリスクを負わせるようなことは、してはいけない。
それを回避できる方法があるなら、多少の無理は承知の上だ。
手塚という存在を失うことに比べたら、それがなんだというのか。

「これは俺が勝手に思っていることで、手塚がつきあう義務はない。今だけじゃなく、この先もね」」
「それは、俺が冷めると言う意味か?」
「可能性のひとつだよ」
その瞬間、手塚は本気で怒ったような顔をした。
結構、手が早いことは知っているから、横っ面をひっぱたかれるくらいの覚悟はした。
だが思い切り睨み付けられただけで、殴られるようなことはなかった。

「俺は、冷めたりしない」
怒っているだろうと思ったのに、なぜか手塚は、静かに微笑んだ。
「今、俺がここにいるのことが、その証明じゃないか?」
確かにそうだ。
最初に手を離したのは、乾の方だ。
乾が背中を向けた後も、ずっと思っていてくれたのは手塚の方だ。
だから、今、自分と手塚はこうしていられる。

引っ越してからまだ二月と経っていない部屋は、がらんとしている。
以前のアパートは狭かったから、家具もそれほど置いてなかった。
今まで使っていたものを全て並べても、今の部屋にはまだ十分すぎるほどのスペースがある。
広々としているといえば聞こえがいいが、むしろ殺風景というのが近い。

だけど、手塚がいるだけで、なにもかもしっくりするのは、きっと気のせいではないはずだ。
昨日までは、ただ広く静かなだけだった部屋は、今は明るくて暖かい空間に感じる。
それは、ここが手塚のために作った場所だからなのかもしれない。
きっと、今、真の主を迎えて、やっと人の住める家になったのだ。

「お前の気持ちはわかった。だけど、二人の問題なら、尚更お前だけに負担をかけたくない」
「でも、家賃はいらない」
これは、俺のプライドであり、決意の表明だから――。
その気持ちを込めて、手塚を見つめる。

多分、その思いの強さを、手塚も感じ取ったのだろう。
仕方ないというように息を吐き、かわりに別の案を出してきた。
「じゃあ食費だ。俺がこっちにいる間の食費くらいは受け取ってくれ」
どうぜ、実際に使う金額の、何倍も置いていくつもりだろう。
その申し出を断ったら、何も食べないと言い出すことも簡単に予想がついた。

「わかった。それはありがたく頂くよ」
笑いながらうなずくと、ようやく手塚も同じように笑い返してくれた。
「じゃあ、早速なにか旨い物でも食べに行くか」
「今から?」
「ああ」
呆れたことに、手塚は既に腰を浮かしている。

「せっかちだな」
「お前の顔を見てたら、腹が減ったんだ」
「へえ。俺の顔には食欲増進の効果があるのか。知らなかった」
わざとゆっくり立ち上がりながら、乾はにやりと笑って見せた。

「手塚の顔には別の欲望を刺激する効果があるけどね」
「そっちは、食事が済んでからだ。空腹では、勃つものも勃たたない」
一枚上手の発言に両手を挙げて降参した。
既にドアに向かっている手塚の後を追いかけて、話しかけた。

「で、結局のところは、どうなんだ」
「何が」
「この部屋、気に入ってくれたのかな」

手塚は、首だけを捻って振り向いて、ふっと微笑んだ。
「ああ。いい部屋だ」
その綺麗な形の唇に、自分の唇を重ねても、手塚は抵抗しない。
腰に両手を回し、強く引き寄せても、やっぱり乾の好きにさせてくれた。

手塚の生まれた日を、新しいこの部屋で祝えるのが、とても楽しみだ。
きっと、日付の変わる瞬間は、ベッドルームになるのだろう。


2008.11.08
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タイトルは、矢野顕子さんの曲から。
それはいいんだけど、前にも同じタイトル使いませんでしたっけ?いやー、全然自信がない。以前書いた文章のデータをいくつか消失しているので、確かめきれない。もし、使っていたら笑ってやってください。

しりとりの賞品2「No Surprise」の続きに当たります。でも、そっちを読んでなくても、特に影響はありません。乾がどんな風に手塚に「引越し」したことを伝えたかがわかるだけです。