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「なにか、欲しい物はないか」 「ああ、ちょうど喉が渇いたと思っていたんだ。悪いが、冷たい水をもらえるか」 「いや、そういう意味じゃなくて」 乾の言葉を聴いて、パジャマの姿の手塚は、腑に落ちないという顔で半身を起こした。 「そうじゃなくてね。誕生日のプレゼントだよ」 手塚は、きょとんとした表情で乾の顔を見つめていたが、三秒後には肩を揺らして笑い始めた。 「なるほど。そういう意味か。悪かった」 今日は10月7日は、手塚の誕生日だ。 その記念すべきに、当の本人は、朝からベッドの中で過ごしている。 数日前から、風邪を引いているのだ。 笑っている手塚に、冷たい水の入ったグラスを手渡す。 水を半分ほど飲んでから、手塚は笑顔のまま、改めて乾の質問に答えた。 「そうだな。なにか面白い本でも買ってきてくれたら嬉しい」 風邪が良くなってきたから、ずっとベッドにいるのが、退屈になってきたのだろう。 「小説か?それとも雑誌の方がいい?」 「なんでもいい。お前に任せる」 「エロ本とかグラビアアイドルの写真集でもいいのか」 「本気でそれを面白いと思うのならな」 残りの水を一息に飲んでから、手塚はグラスの水よりも冷たい眼差しを、乾に向ける。 「わかったよ。ちゃんと手塚が好きそうなのを探す」 わかればいい、とでも言いたげに、手塚はゆっくりと頷いた。 手塚が、急に熱を出したのは四日前の夜。 ここのところ、天候が不安定で、朝晩や日によって寒暖の差が激しかった。 そのせいで、風邪を引いてしまったらしい。 すぐに病院に行ったので、熱は翌日には、ある程度下がったのだが咳が止まらない。 熱が下がると動きたがる手塚を、下手に無理をして長引かせるよりは、今きっちり治した方がいいと説き伏せ、ベッドに押し込めていた。 乾の判断は正しかったようで、続いていた咳も今朝あたりからは、かなり良くなってきた。 まだ声は多少掠れているが、顔色はそう悪くない。 「ほんとうに、プレゼントが本でいいのか?」 「ああ」 「じゃ、頑張って面白そうなのを探してくる」 「今すぐ行くのか」 まさか、本当に買いに行くと思わなかったのだろうか。 立ち上がった乾を見上げる手塚の顔は、少し驚いているようだった。 今日は、ほぼ定時に仕事を追え、どこにも寄らずに帰宅したから、時間は十分にある。 夕食用の買出しがてら、本屋にも足を伸ばすくらい簡単なことだ。 「退屈しているみたいだからね。その方がいいだろう?」 手塚は返事をしなかったが、かわりに微かに笑って見せた。 これは肯定の意味なのだろう。 手塚が望むことなら、可能な限り答えることにしている。 手早く出かける支度をして、マンションを出た。 手塚には、勝手にベッドから出ないように言っておいたが、それに素直に従うかどうかはわからない。 だが、基本的には律儀な人間なので、おとなしく寝ているかもしれない。 どっちにしても、あまり待たせないほうがいいだろう。 一緒に暮らし始めたころは、お互いの誕生日を祝うことを、とても大切にしていた。 離れて暮らしていた数年分の空白を、どうにかして埋めたかったのかもしれない。 特別な日にしなくてはと、随分気負いこんでいたような気がする。 だが、それも何年かすると、自然と落ち着いてきた。 もともと、手塚が大げさなことを好まない性格だということもある。 それ以上に、誕生日を祝う形式に、こだわる必要がないと気づいたからだと思う。 だから、今ではプレゼントも用意したりしなかったりと、あまり決まりごとを作らないようにしている。 今年は映画にでも誘おうと、漠然と考えていた程度だった。 だが、手塚の風邪で、それもできなくなった。 もちろん手塚には、そうするつもりだったことは、話していない。 言えば、きっと手塚は気にすると考えたからだ。 でも、会社からまっすぐ帰ってきて、手塚の様子を見てみたら、予想以上に元気になっていた。 これなら、誕生日を祝っても、気を使わせなくて済みそうだと判断した。 欲しいものはないか──。 その問いの答えが、冷たい水だとは、さすがに予想はしていなかったが。 きょとんした手塚の顔を思い出すと、つい頬が緩んでしまう。 その今日の主役をあまり待たせないよう、急ぎ足で本屋に向かった。 買い物を済ませ帰宅すると、手塚は一応は言いつけどおり、ベッドの中にいた。 だが、寝るのは飽きたのか上半身を起こし、雑誌をめくっていたようだ。 「ただいま」 「おかえり」 手塚は、乾の顔を雑誌をぱたんと閉じた。 「思っていたより、早かったな」 「迷わなかったからね」 本を袋から取り出して、手塚に渡す。 買ってきた本は三冊。 出たばかりの海外ミステリ小説を二冊と、アウトドア雑誌を一冊だ。 どれも手塚の趣味には、合っているはずだ。 渡した本を見て、手塚は口元を綻ばせた。 「ありがとう。どちらも、出たら買おうと思っていたんだ」 「外していなかったか。安心したよ」 手塚は、見え透いたお世辞や嘘を言う人間ではない。 どちらの本も、手塚の好みだという自信はあったが、嬉しそうな顔を見るとやはりほっとする。 「本当に、これがプレゼントでいいのかな」 「ああ、勿論だ。とても嬉しい」 「そうか。良かった」 簡単に済ませてしまったプレゼントだが、喜んでもらえるのは贈った側も嬉しい気持ちになる。 でも、やっぱりこれだけでは少し寂しい。 「オマケがあるんだけど、もらってくれるか」 「オマケ?なんだ?」 「ちょっと待っていてくれ」 乾は、いったんベッドルームを出て、キッチンへと向かう。 さっき冷凍庫にいれたばかりものを取り出し、すぐに手塚の所に戻った。 「はい。バースデーケーキのかわり」 手塚の前に、赤い紙のカップをふたつ差し出した。 「アイスクリームか」 「うん。ケーキよりは食べやすいかと思ってね」 「ありがとう。今、食べていいか」 「もちろん。でも身体を冷やさないようにしてくれよ」 ニットのカーディガンを手渡すと、手塚は素直にそれに手を通した。 「ラムレーズンとチーズクリームラズベリーのどっちがいい?」 「ラムレーズン」 「じゃあ、はい」 アイスクリームとスプーンを渡すと、手塚はすぐに蓋を開けて食べ始めた。 多分、手塚はラムレーズンを選ぶだろうと予想していた。 予想が外れなかったことに、ひそかに満足する。 乾もベッドの端に座り、手塚が選ばなかった方を食べた。 「旨い」 手塚の言葉に、乾も頷く。 「うん。美味しいね」 コンビニでも売っているメジャーな商品だ。 価格帯としては、高い方に入るのだろうが、それでもひとつ300円しない。 バースデーケーキを買うよりは、ずっと安い。 買ってきた本と合わせても、五千円でお釣りがくる。 「安上がりな誕生祝いだな」 「俺は、これで十分だ」 手塚はアイスクリームを食べる手を一旦止めて、乾の顔を見た。 「ここ数日、世話になりっぱなしだ」 「俺は、かまいたがりだからな。けっこう楽しい」 「確かに、楽しそうに見えるな。だから、遠慮なく甘えさせてもらっている」 「理解してもらえて嬉しいよ」 手塚に気を使って言ったわけではなく、世話を焼くことを、本当に楽しんでいる。 今日という日は、もう二度とないけれど、誕生日は今日限りではない。 来年も再来年も、10月7日はやってくるのだから。 だからといって、誕生日を祝う気持ちがなくなったわけじゃない。 今でも、手塚が自分と同じ時間に存在してくれることが、心から嬉しい。 手塚が怒るから口に出して言わないけれど、自分自身よりもずっと大切な存在だと思っている。 この気持ちに名前をつけるとしたら、愛というしかないのだろう。 「ありがとう」 自然と、この言葉が出てきた。 「なんだ?唐突に」 「ありがとうは、ありがとうだよ」 「だから、何に対して、ありがとうなんだ」 アイスクリームのカップを右手に、スプーンを左手に持って、手塚が笑う。 「手塚の存在そのものに、かな」 手塚のいない世界なんて、想像する気にもならない。 声を聞いて、姿を見て、この手で触れられることが、嬉しくてしかたない。 「生まれてきてくれて、ありがとうってことだ」 紙のカップに入ったアイスを食べながら、自分は何を言っているんだろう。 改めて考えると、ちょっと可笑しい。 手塚と会うことそのものが特別だった頃には、こんなことは言えなかった。 特別なことも、平凡なことも、日々の営みとして平等に過ぎていく。 積み重ねた時間は目には見えないけれど、手塚と自分の中に確かなものを残していくのだ。 「じゃあ、俺からも同じ言葉を贈る」 手塚は柔らかい笑顔を浮かべて、乾の顔を見つめた。 「アイスクリームのお礼?」 「それもある」 楽しげに小さく笑い、茶色の髪を揺らした。 「俺の隣に居てくれて、ありがとう」 「これからも、ずっと居るつもりなんだけど」 「俺もそのつもりだが」 「そうか」 「そうだ」 そう言い合ったあと、ふたりとも黙って残りのアイスクリームを食べることに専念した。 全部食べきったのを見計らって、乾が思い出したように言った。 「誕生日おめでとう」 少し間があいてから、手塚が答える。 「そういえば、そうだったな。一瞬、誕生日のことを忘れていた」 冗談ではなく、手塚は、本気で忘れていたらしい。 乾は、それを聞いて声を上げて笑った。 一年に一度の特別な日は、そんな風に、穏やかで平凡に終わったのだった。 2010.11.14 ------------------------------------------------------------ 特別な日を、普通に過ごせるのが贅沢だと、乾は思っている。そういう話です。 で、この夜は久々に一緒のベッドで寝ると思う。 |