365分の1

「なにか、欲しい物はないか」
「ああ、ちょうど喉が渇いたと思っていたんだ。悪いが、冷たい水をもらえるか」
「いや、そういう意味じゃなくて」
乾の言葉を聴いて、パジャマの姿の手塚は、腑に落ちないという顔で半身を起こした。
「そうじゃなくてね。誕生日のプレゼントだよ」
手塚は、きょとんとした表情で乾の顔を見つめていたが、三秒後には肩を揺らして笑い始めた。
「なるほど。そういう意味か。悪かった」

今日は10月7日は、手塚の誕生日だ。
その記念すべきに、当の本人は、朝からベッドの中で過ごしている。
数日前から、風邪を引いているのだ。

笑っている手塚に、冷たい水の入ったグラスを手渡す。
水を半分ほど飲んでから、手塚は笑顔のまま、改めて乾の質問に答えた。
「そうだな。なにか面白い本でも買ってきてくれたら嬉しい」
風邪が良くなってきたから、ずっとベッドにいるのが、退屈になってきたのだろう。

「小説か?それとも雑誌の方がいい?」
「なんでもいい。お前に任せる」
「エロ本とかグラビアアイドルの写真集でもいいのか」
「本気でそれを面白いと思うのならな」
残りの水を一息に飲んでから、手塚はグラスの水よりも冷たい眼差しを、乾に向ける。
「わかったよ。ちゃんと手塚が好きそうなのを探す」
わかればいい、とでも言いたげに、手塚はゆっくりと頷いた。

手塚が、急に熱を出したのは四日前の夜。
ここのところ、天候が不安定で、朝晩や日によって寒暖の差が激しかった。
そのせいで、風邪を引いてしまったらしい。
すぐに病院に行ったので、熱は翌日には、ある程度下がったのだが咳が止まらない。
熱が下がると動きたがる手塚を、下手に無理をして長引かせるよりは、今きっちり治した方がいいと説き伏せ、ベッドに押し込めていた。
乾の判断は正しかったようで、続いていた咳も今朝あたりからは、かなり良くなってきた。
まだ声は多少掠れているが、顔色はそう悪くない。

「ほんとうに、プレゼントが本でいいのか?」
「ああ」
「じゃ、頑張って面白そうなのを探してくる」
「今すぐ行くのか」
まさか、本当に買いに行くと思わなかったのだろうか。
立ち上がった乾を見上げる手塚の顔は、少し驚いているようだった。

今日は、ほぼ定時に仕事を追え、どこにも寄らずに帰宅したから、時間は十分にある。
夕食用の買出しがてら、本屋にも足を伸ばすくらい簡単なことだ。
「退屈しているみたいだからね。その方がいいだろう?」
手塚は返事をしなかったが、かわりに微かに笑って見せた。
これは肯定の意味なのだろう。
手塚が望むことなら、可能な限り答えることにしている。

手早く出かける支度をして、マンションを出た。
手塚には、勝手にベッドから出ないように言っておいたが、それに素直に従うかどうかはわからない。
だが、基本的には律儀な人間なので、おとなしく寝ているかもしれない。
どっちにしても、あまり待たせないほうがいいだろう。

一緒に暮らし始めたころは、お互いの誕生日を祝うことを、とても大切にしていた。
離れて暮らしていた数年分の空白を、どうにかして埋めたかったのかもしれない。
特別な日にしなくてはと、随分気負いこんでいたような気がする。
だが、それも何年かすると、自然と落ち着いてきた。
もともと、手塚が大げさなことを好まない性格だということもある。
それ以上に、誕生日を祝う形式に、こだわる必要がないと気づいたからだと思う。

だから、今ではプレゼントも用意したりしなかったりと、あまり決まりごとを作らないようにしている。
今年は映画にでも誘おうと、漠然と考えていた程度だった。
だが、手塚の風邪で、それもできなくなった。
もちろん手塚には、そうするつもりだったことは、話していない。
言えば、きっと手塚は気にすると考えたからだ。

でも、会社からまっすぐ帰ってきて、手塚の様子を見てみたら、予想以上に元気になっていた。
これなら、誕生日を祝っても、気を使わせなくて済みそうだと判断した。
欲しいものはないか──。
その問いの答えが、冷たい水だとは、さすがに予想はしていなかったが。
きょとんした手塚の顔を思い出すと、つい頬が緩んでしまう。
その今日の主役をあまり待たせないよう、急ぎ足で本屋に向かった。

買い物を済ませ帰宅すると、手塚は一応は言いつけどおり、ベッドの中にいた。
だが、寝るのは飽きたのか上半身を起こし、雑誌をめくっていたようだ。
「ただいま」
「おかえり」
手塚は、乾の顔を雑誌をぱたんと閉じた。
「思っていたより、早かったな」
「迷わなかったからね」

本を袋から取り出して、手塚に渡す。
買ってきた本は三冊。
出たばかりの海外ミステリ小説を二冊と、アウトドア雑誌を一冊だ。
どれも手塚の趣味には、合っているはずだ。

渡した本を見て、手塚は口元を綻ばせた。
「ありがとう。どちらも、出たら買おうと思っていたんだ」
「外していなかったか。安心したよ」
手塚は、見え透いたお世辞や嘘を言う人間ではない。
どちらの本も、手塚の好みだという自信はあったが、嬉しそうな顔を見るとやはりほっとする。

「本当に、これがプレゼントでいいのかな」
「ああ、勿論だ。とても嬉しい」
「そうか。良かった」
簡単に済ませてしまったプレゼントだが、喜んでもらえるのは贈った側も嬉しい気持ちになる。
でも、やっぱりこれだけでは少し寂しい。

「オマケがあるんだけど、もらってくれるか」
「オマケ?なんだ?」
「ちょっと待っていてくれ」
乾は、いったんベッドルームを出て、キッチンへと向かう。
さっき冷凍庫にいれたばかりものを取り出し、すぐに手塚の所に戻った。

「はい。バースデーケーキのかわり」
手塚の前に、赤い紙のカップをふたつ差し出した。
「アイスクリームか」
「うん。ケーキよりは食べやすいかと思ってね」
「ありがとう。今、食べていいか」
「もちろん。でも身体を冷やさないようにしてくれよ」
ニットのカーディガンを手渡すと、手塚は素直にそれに手を通した。

「ラムレーズンとチーズクリームラズベリーのどっちがいい?」
「ラムレーズン」
「じゃあ、はい」
アイスクリームとスプーンを渡すと、手塚はすぐに蓋を開けて食べ始めた。
多分、手塚はラムレーズンを選ぶだろうと予想していた。
予想が外れなかったことに、ひそかに満足する。
乾もベッドの端に座り、手塚が選ばなかった方を食べた。

「旨い」
手塚の言葉に、乾も頷く。
「うん。美味しいね」
コンビニでも売っているメジャーな商品だ。
価格帯としては、高い方に入るのだろうが、それでもひとつ300円しない。
バースデーケーキを買うよりは、ずっと安い。
買ってきた本と合わせても、五千円でお釣りがくる。

「安上がりな誕生祝いだな」
「俺は、これで十分だ」
手塚はアイスクリームを食べる手を一旦止めて、乾の顔を見た。
「ここ数日、世話になりっぱなしだ」
「俺は、かまいたがりだからな。けっこう楽しい」
「確かに、楽しそうに見えるな。だから、遠慮なく甘えさせてもらっている」
「理解してもらえて嬉しいよ」

手塚に気を使って言ったわけではなく、世話を焼くことを、本当に楽しんでいる。
今日という日は、もう二度とないけれど、誕生日は今日限りではない。
来年も再来年も、10月7日はやってくるのだから。

だからといって、誕生日を祝う気持ちがなくなったわけじゃない。
今でも、手塚が自分と同じ時間に存在してくれることが、心から嬉しい。
手塚が怒るから口に出して言わないけれど、自分自身よりもずっと大切な存在だと思っている。
この気持ちに名前をつけるとしたら、愛というしかないのだろう。

「ありがとう」
自然と、この言葉が出てきた。
「なんだ?唐突に」
「ありがとうは、ありがとうだよ」
「だから、何に対して、ありがとうなんだ」
アイスクリームのカップを右手に、スプーンを左手に持って、手塚が笑う。

「手塚の存在そのものに、かな」
手塚のいない世界なんて、想像する気にもならない。
声を聞いて、姿を見て、この手で触れられることが、嬉しくてしかたない。
「生まれてきてくれて、ありがとうってことだ」

紙のカップに入ったアイスを食べながら、自分は何を言っているんだろう。
改めて考えると、ちょっと可笑しい。
手塚と会うことそのものが特別だった頃には、こんなことは言えなかった。
特別なことも、平凡なことも、日々の営みとして平等に過ぎていく。
積み重ねた時間は目には見えないけれど、手塚と自分の中に確かなものを残していくのだ。

「じゃあ、俺からも同じ言葉を贈る」
手塚は柔らかい笑顔を浮かべて、乾の顔を見つめた。
「アイスクリームのお礼?」
「それもある」
楽しげに小さく笑い、茶色の髪を揺らした。

「俺の隣に居てくれて、ありがとう」
「これからも、ずっと居るつもりなんだけど」
「俺もそのつもりだが」
「そうか」
「そうだ」

そう言い合ったあと、ふたりとも黙って残りのアイスクリームを食べることに専念した。
全部食べきったのを見計らって、乾が思い出したように言った。
「誕生日おめでとう」
少し間があいてから、手塚が答える。
「そういえば、そうだったな。一瞬、誕生日のことを忘れていた」
冗談ではなく、手塚は、本気で忘れていたらしい。
乾は、それを聞いて声を上げて笑った。

一年に一度の特別な日は、そんな風に、穏やかで平凡に終わったのだった。


2010.11.14
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特別な日を、普通に過ごせるのが贅沢だと、乾は思っている。そういう話です。

で、この夜は久々に一緒のベッドで寝ると思う。