月と星の下で 1

少し冷えた夜の空気を、わずかに揺らしながら闇に溶けていくような、静かだけれど深い声を、乾は持っている。
乾の声は、夜に聞くのが一番いい。
そう気づいたのは、いつだったろうか。


乾の仕事がどれほど忙しいかを、作家である自分は、よくわかっている。
最初の出会いからして、作家と担当編集者という関係だったのだから、当然だ。
編集者としての乾は、とても優秀で、手塚の知る中では一番仕事がしやすい相手だ。
どれくらい乾にサポートしてもらっているか、わからない。
個人的なつきあいが一切なかったとしても、ずっと自分の担当をして欲しいと願っただろう。
恋人と呼ぶ関係になってからも、乾を前にして、互いの立場を少しも意識せずにいるのは難しい。
乾が自分のスケジュールを、ほぼ把握しているように、手塚もまた乾の仕事の流れを理解している。
なので、ついつい編集者としての乾に負担がかからないことを、優先して考えてしまう。
それは、自分の誕生日であっても例外では、なかった。

「もうすぐ、国光さんのお誕生日ですね」
乾に、そう言われたのは、10月に入ってすぐのことだった。
細かいところに気のまわる乾が、手塚の誕生日を無視する可能性は少ない。
わかっていはいたのだが、手塚は意図的に誕生日の話題を出すことを避けていた。
なので、やっぱり来たか、という気持ちになった。

祝ってくれる気持ちは嬉しいが、もう自分の誕生日を大喜びする年齢でもない。
忙しいのに、無理をしてまで時間を作って欲しくなかった。
とはいえ、乾の好意を無下にもしたくはない。

「7日は、ご予定はありますか」
「いや。特には」
「では、夜に、ここに来ても?」
こんな風に訊かれてしまったら、断るなんて手塚には出来ない。
お互い、うまく時間が取れればという前置きつきで、とりあえずは会うことになった。
だが、それ以上の約束はしなかった。

結局、乾は10月7日ではなく、前の夜にやってきた。
「日付が変わる瞬間に、一緒に居たくて」
乾が言う、その時間までには、あと一時間半ほど残っていた。
おそらく、相当に頑張って仕事を終わらせてきたのだろう。
無理をさせてしまったと、口に出しそうになったが、寸前で止めた。
せっかくの心遣いは、ありがたく受け取ろうと思ったからだ。

いつものように指定席になっているソファに座り、乾は柔らかく微笑んだ。
でも、早く隣に座れと言う、無言の要求も含んでいることを手塚は知っている。
乾の願い通りにしてやると、嬉しくてたまらないという風に、目を細めて笑った。
普段は何を考えているかわかりにくい男なのに、ときどきこういう可愛いところを見せるから困る。

「誕生日、おめでとうございます」
静かな声が、手塚の鼓膜と心臓の両方を震わせた。
「ありがとう」
ほのかに胸の奥が、あたたかくなる。


2010.11.28(2に続く)