手塚が早朝の部室のドアを開けるとき、真っ先に声をかけるのは、いつもほぼ決まっている。
朝練の一番乗りは大石で、二番は手塚。
副部長の大石が、鍵当番になってから、これは殆ど変わらない。
初夏の今時分はいいが、真冬の寒さが厳しい頃にも、誰よりも早く来るのは大変だろう。
こんな役割を任せられるのは、男子テニス部の中では、やっぱり大石しかいないと手塚も思う。
今朝も手塚がドアを開けたとき、おはようと気持ちのいい声で言ってくれたのは副部長だった。
部室の中には、眩い朝の光が縞模様を作っていた。
少し目を細めて、手塚も同じ挨拶を返す。
すでに着替えを済ませていた大石は、手に何かを持ち、手塚の前に歩いてくる。
「この本は、手塚のか?」
手にしていたのは、一冊の本だった。
「なんだ?」
「誰かがあそこに置き忘れていったみたいなんだ」
大石は、部員がミーティングに使う大きな机を指差した。
「きっと、手塚か乾のだろうと思ったんだけど」
確かに、昨日の部活後に、あの場所で大石と手塚と乾の三人で、練習試合に向けての作戦会議を行った。
大石本人のものではないなら、残った二人のどちらかと考えても不思議はない。
「俺のではないな。ちょっといいか」
差し出した手に渡された本は、文庫のサイズだった。
厚さは1センチ前後というところだろうか。
駅前にある大型書店のカバーがかけられているから、中身はわからない。
だが、本の大きさや厚みが、ここ数日、乾が持ち歩いていたものに良く似ている。
もちろん、その本にも同じ書店のカバーがかかっていた。
「多分、乾のだと思う」
手塚の答えを聞いて、大石は、やっぱりという顔をして頷いた。
「じゃあ、手塚が預かっておいてくれるかな」
「わかった。乾が来たら、俺が確かめておく」
頼むと言い残して、大石は一足先に、部室を出て行った。
乾の興味の対象は呆れるほどに広い。
本に関しても同様で、興味を持てば、なんだって読む。
まさに手当たり次第で、読書傾向なんてものはないといってもいい。
そんな乾が、ここ数日、ずっと持ち歩いていたらしいのこの本は、一体どんな内容なのか。
人のものだとはわかっているが、好奇心には勝てず、つい表紙をめくってしまった。
中表紙に並んだ文字に、どきりとした。
手塚もよく知る著者の名前が、そこにあった。
乾の読む本のすべてを、手塚が把握しているはずもない。
いちいち何を読んでいるのかを、聞きたいとも思わない。
乾と自分は、読んだ本について語り合うような、そんな間柄でもない。
なのに、乾がこの本の持ち主だと知っただけで、こんな落ち着かない気分になるのはなぜだろう。
見なければ良かったと思っても、もう遅い、
手塚はそっと本を閉じ、目に付かないよう、自分のロッカーの奥にしまい込んだ。
結局、朝のうちには時間が取れず、乾と話ができたのは部活後になってしまった。
たまたま今日も、最後まで部室に残ったのが乾と自分だった。
手塚にとっては、好都合だ。
着替えをする前に、ロッカーにしまっておいた本を注意深く取り出した。
「乾」
「ん?」
白いシャツに袖を通しながら、乾が首を捻る。
「これは、お前の本じゃないのか」
ずっと手塚が持っていた本を、表紙の側を上向きにして、乾の前に差し出した。
ぴたりと乾の視線が止まる。
「あれ?俺の?」
「多分」
「ちょっと失礼」
乾は着替えの手を止め、本を受け取ると、器用に片手で表紙をめくった。
手が大きいから、普通の文庫なのに小さく見える。
「あ、うん。やっぱり俺のだ。これ、どこにあった?」
「その机の上らしい。見つけたのは大石だ。見覚えがあったから、俺が預かっておいた」
「そうか。ありがとう。大石にも明日礼を言っておくよ」
乾は口元に笑みを浮かべ、ぱらぱらとページをめくっている。
ボタンの嵌っていないシャツから、裸の胸や腹が覗く。
とりあえず、先にそっちをどうにかしたらいいのにと思う。
「置き忘れてたことにも気づいてなかったな」
「ずっと持ち歩いていたのにか?」
乾は顔を上げ、ふうんと小さな声で呟いた。
なにかを含んでいる口調と表情だが、手塚にはそれを読み取るのは難しかった。
だから、あえて気づかないふりをする。
乾と対面していると、こういうことが珍しくない。
「確かに数日持ち歩いてはいたけどね。でも、読むのは初めてじゃないから」
「そう、なのか」
「ああ。何度も読んだ本だよ。でもときどき、無性に読み返したくなるんだ」
閉じた本の表紙を、乾は指先で撫でる。
とても長い指だ。
「手塚にも、そういう本があるだろう?」
「ある」
乾は顔を上げて、ふっと微笑んだ。
部活中では、あまりこんな風には笑わない。
自分の思い込みでないなら、こういう静かな笑顔は、他に誰もいないときだけだ。
手塚はだまったまま体の向きを変え、着ていたジャージを脱ぎ始めた。
出来るだけさりげなく振舞ったつもりだが、乾の目にどう映ったかは、わからない。
視界の端に、乾がシャツのボタンを嵌めている姿が映った。
今の手塚の行動が、視線を反らせたたかったからだと、どうか気づかないでほしい。
「お前が立原道造を読むとは知らなかった」
乾の顔を見ずに、今朝から、ずっと言いたかったことを口にしてみた。
「意外かな」
「ああ」
「正直だな」
くすっと笑う声が聞こえる。
この瞬間も、さっきのような笑顔を浮かべているのだろうか。
「読むなら、貸すよ」
その本は、自分も読んだ事がある。
なぜか、そう言えなかった。
「いいのか?」
「ああ。手塚なら、喜んで」
顔を上げると、思ったよりも近い位置に、乾がいた。
心臓と同じくらいの高さに、カバーのかかった本が差し出されている。
「返してくれるのは、いつでもいい」
「ありがとう」
どういたしましてと、乾が笑う。
さっき乾に渡した本が、もう一度手の中に帰ってきた。
好きな本だと、同じ本を持っているのだと、どうして言わなかったのだろう。
言ってしまえば、簡単なのに。
口に出来ない言葉を飲み込んだまま、夏服に袖を通す。
乾は少し離れたところで、手塚が着替え終わるのを待っているようだ。
目が会うと、微かに微笑んだ。
乾から借りた本を、自分の部屋で開いたら、浮かんでくるのは、きっとあの笑顔だろう。
そんな予感がした。
2009.04.16
手塚が借りた本は、立原道造の詩集です。