髪を切った翌朝は、風が吹くたび首筋が少し涼しかった。
「ずいぶん短くしたんだな」
背後から聞きなれた声がする。
すぐに振り返らなかったのは、どんな顔をしていいのか、わからなかったからだ。
でも、無視をしたら、その意味を悟られてしまうかもしれない。
だから、一呼吸置いて、手塚は振り返った。
予想通りに、乾は、口元に薄い笑みを浮かべていた。
日差しが目に入って少し眩しい。
「おはよう。手塚」
「…おはよう」
わざと仏頂面を作ってみたが、乾は気にする様子はない。
もしかしたら、いつもとあまり変わっていないのかもしれない。
この四月から、乾はテニス部の朝練に来るのが早くなった。
一番乗りは鍵当番の大石で、二番は手塚というのは、まず動かない。
三番以下は、日によってまちまちだが、少なくとも乾が早い方の順位に入ることはまれだった。
だが、ここ二ヶ月ほどは、手塚とさほど変わらない時間に顔を見せるようになっている。
最上級生になったから、気合が入っているのか。
単なる気まぐれなのかは、規則正しい生活が基本の手塚には、乾の変化の理由が良くわからない。
そもそも、乾に関しては、手塚に理解できる部分の方が少ないが。
理解できるのは、テニスに関係のある部分だけだ。
「どうして、そんなに短くしたんだ?」
ウォーミングアップをしている最中に、横から乾が話しかけてきた。
乾が早く部活に出てくるようになってから、やけに手塚にかまうようになった気がする。
何が面白いのか知らないが、アップするときも、わざわざ近くにやってくる。
確かに昨日、手塚は髪を切った。
ここ数年では一番短くしたと思う。
自分の意思でそうしたことで、仕上がりも気に入っていた。
だが、乾が自分の髪型に興味を示す可能性を考えていなかった。
もうちょっと控えめに切ればよかったと後悔したところで、髪はいきなり伸びてはくれない。
「特別な理由はない」
乾の方を見ないようにして、手塚は自分のペースで身体を動かす。
無視に近い反応のつもりだが、乾は気にしてないようだ。
構わずに会話を続けてくる。
「ここ二年くらい、ずっとほぼ同じ長さをキープしていただろう?」
問いかけられれば、返事をしないわけにもいかない。
手塚は渋々口を開いた。
「それがどうした」
「理由もなく、変えるものかなと思ってね」
ちらりと横目で伺うと、案の定乾は身体を前に倒しながら、にやりと笑っていた。
本当に嫌な男だ──。
手塚は小さく息を吐いた。
言えるわけがないのだ。
お前を真似したなんてこと。
手を組んで、思い切り両腕を空に向けて伸ばすと、水色の空が視界一杯に広がっていた。
乾は、初めて会ったときには、既に今と同じ髪型だった。
毛先が、つんつんと上を向いた特徴のある髪型だ。
その髪型と四角い黒縁眼鏡が乾のトレードマークだと言って、差し支えないだろう。
それにテニス部であることと、長身であることを付け足せば、青学の生徒ならすぐに誰のことを言っているかわかるはずだ。
手塚にとっても、乾の髪型は印象に残るものだった。
乾の背がどんどん伸び始めた頃から、より気になるようになってきた。
すっきりとした額と、短い襟足からのぞく白い項。
それが手塚の目を惹いた。
人よりも白い肌と、真っ黒な髪と瞳のコントラストのせいだろうか。
学生服を着ていても、どこか涼やかで、清潔な感じがする。
でもテニスをしているときは、白い肌の上を、汗が筋を描いて流れていく。
額の汗を手の甲で拭う仕草が、気になって仕方なかった。
もっとはっきり言ってしまえば、ある種の美しさを感じたのだと思う。
髪を切ってみようかと考えたのは、多分そのときだ。
乾になりたいわけじゃない。
でも、それに近いなにかを感じてみたかったのかもしれない。
「短いと、楽かと思ったんだ」
愛用のラケットを握り、乾の方を振り返った。
「ああ。それは間違いないな」
乾も自分のラケットを手にし、手塚に向かって微笑んだ。
「髪を洗ったあとも、手串で整えるだけでいいし、あっという間に乾く」
他にいくつか短髪の利点を挙げてから、目を細めた。
「短いのも似合うよ」
お前の方が、ずっと似合う。
そんな科白を、手塚が言えるはずがない。
「サーブの練習につきあえ」
代わりに出たのは、こんな言葉だった。
「了解」
乾はコートの対面に向かって歩き出したが、途中でふと足を止めた。
「なんだ?」
「首、細いなあと思って」
今度は何も言えなかった。
すぐにサーブの構えを取ると、乾は慌てて対角線に走っていく。
その後姿に、馬鹿野郎と呟いた。
その日はずっと、首のあたりがくすぐったかった。
初夏の風のせいなのか、誰かの視線のせいなのか、手塚には区別がつかなかった。
2009.05.06
手塚→乾。でも多分両思い。