手のひらに、雨

雫が頬に落ちたのと、乾の声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「ああ、とうとう降ってきたな」
乾は、足を止め、空を見上げている。
詰襟から覗く喉元は、白い。

朝は真っ青だった空が、重苦しい灰色に変わったあたりから、そのうち雨になるだろうとは思っていた。
天気予報では、午後からの降水確率は60パーセントだった。
ただ、あまりに朝がいい天気だったので、傘はいらないような気もした。
それでも60パーセントという確立を無視できず、小型の折り畳み傘を持って家を出たのだ。
結局、その判断で間違いなかったということか。

まだそれほど、ひどい降りではないが、駅までは少し距離がある。
鞄の中から折り畳み傘を出すと、乾もやはり同じように傘を取り出した。
だがすぐには、それを開かずに、ただ空を見上げている。
鞄を左手に持ち、脇に傘を挟むと、黙って右手を開き肩の高さに持ち上げた。
乾の大きな手のひらに、雨粒が落ちる。

「ひどい降りにはならないだろうけど、すぐには止みそうにないね」
乾の口元には、笑みが浮かんでいた。
「そう思うなら、どうして傘を差さないんだ」
10月も後半に入ったこの時期、傘なしで歩けば風邪を引きかねない。
「今、差す」
乾は、持っていた傘を開いてから、ゆっくりと歩き出した。
それに合わせ、手塚も歩き出す。

テニス部を引退して、約二ヶ月。
クラスも進路も違うのに、乾とは毎日のように顔を合わせている。
元の部員で、ここまで頻繁に会っているのは乾だけだ。
乾が二年半かけて集めたテニスに関するデータや資料を、後輩達に残したいと相談されたが、きっかけだった。
部長だった手塚が、それに反対する理由はない。
自分も出来る限り手伝うから、ぜひ残してやって欲しいと答えた。
それ以来、時間を見つけては、こつことデータをまとめる作業をしている。
今日も、放課後にその作業をしていて、天気が変わる前に帰ろうとしていたところだった。

傘から見え隠れする乾の顔は、まだ微かに笑っている。
「嬉しそうだな」
「別に喜んでいるわけじゃないよ」
返ってきた声は静かで、やはりどことなく楽しそうな響きがあった。

人のことは言えないが、乾は、普段あまり大きな声で笑ったりすることはない。
喜怒哀楽を、あまり表に出さない。
だけど、たった今、雨を手に受ける乾は、楽しそうに見えたのだ。
テニスを通してなら、乾のことはそれなりに理解しているつもりだった。
だが、テニスをしていないときの乾を、手塚は知らない。
どんなときに笑うのかさえ──。

「お前は、雨が好きなのか?」
「嫌いな天気はないな。急に降られたりしたら困りはするけど」
「そうだな。俺も、困ると思うことはあっても、雨そのものが嫌いではない」
テニス部だから、夏が長いと嬉しいとは思う。
でも、手塚の目には、どの季節も等しく美しい。
乾も、同じなのだろうか。

声には出さなかったのに、乾は手塚の疑問に答えるようなタイミングで口を開いた。
「晴れも、雨も、曇りも、雪も全部面白いし、興味深い」
「面白い?」
「ああ、面白いよ。とても。子供のころから気象や天文には興味が合ったけど、知れば知るほど、もっと面白くなるね」
乾らしい、と思った。
乾の何を知っているわけでもないのに。
それともいつのまにか、乾らしさが自然とわかるほどに、近づいていたのだろうか。

「手塚も面白い」
「どういう意味だ」
「え?そのままの意味だよ。俺にとっては、とても興味深い存在だ」
「俺のどこが」
「なにもかも全部。天文や気象と同じだね」
乾は傘を傾け、手塚の方を向いて、目を細めて微笑んだ。

「知れば知るほど、面白くなる。だから、もっと知りたくなる」
「データは、もう集まったんじゃないのか」
「全然足りないよ」
「取りたいなら勝手に取ればいい」
「そうさせてもらう」
乾は、ふふっとかわいた声で笑い、そのまま前を向いて歩き出した。

傘がぶつからないように、少し乾と距離を取る。
ぱたぱたと傘に当たる雨の音を聞きながら、いつもよりゆっくりと歩いた。
そして、さっきの乾の真似をして、こっそりと左手で雨を受けてみる。
手のひらに落ちてきた雨のしずくは、思っていたよりも冷たくなかった。

2010.01.12

実は、うすうす自分たちが両思いであることをわかっているんじゃないだろうか。

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