フラグ

引退した三年生が朝練に参加するのは、後輩達には物好きに映るかもしれない。
むしろ、事前連絡なしの不意打ちの登場は、嫌がらせに近い。
それでも、あからさまに迷惑そうな顔をしないのは、その物好きな面子の中に手塚がいるからだ。

俺を含め、引退した元部員達の進路は、ほぼ決定しているようなものだ。
受験を控えている生徒に比べれば、多少の余裕があった。
「ようするに、暇なんでしょ?」
生意気な一年生は、そう言って笑う。

そうすっぱり言い切られてしまうほど、暇ではない。
だが、テニスをしない生活を続けると、時間が余る感覚はある。
引退したはずの三年生のうち、誰かひとりくらいは、適当な理由をつけて部活にいる状態だ。
そんなことが毎日のように続けば、暇だと言われても仕方ない。

今日は土曜日で、俺と手塚の他に不二や英二も顔を見せた。
後輩達には、少々申し訳ないが、じっくりテニスを楽しむことができた。
なんだかんだ言っても、俺達はテニスというスポーツだけでなく、青学テニス部が大好きなのだ。
せめて卒業するまでは、この場所に居させてほしいと言うのが、俺達全員の本音だった。

結局、元レギュラー陣は、今日の部活でも、最後まで残っていた。
以前と同じように部室で着替えをし、部員同士で、どうということのない会話をする。
テニス部を引退したあとでは、そんなことすら、嬉しく感じてしまう。
後輩達も、その辺のことは理解してくれているようで、ちゃんと付き合ってくれる。
今日の場合は、これから青学テニス部を引っ張っていく二人と、長い時間話をした。
ふと気づけば、他の部員はすでに帰ってしまい、部室の中には、海堂と桃、そして俺と手塚しかいなくなっていた。

これ以上つきあわせては、二人が可愛そうだ。
「そろそろ、帰ろうか」
俺がそう切り出すと、手塚もすぐに立ち上がった。
「長い時間つきあわせて悪かった」
元部長に頭を下げられたふたりは、慌てて頭を下げ返していた。

部室を出れば、俺と手塚のふたりきりだ。
冬の初めの空は、目に痛いくらいに晴れている。
空気は冷たく、汗をかいた後の肌に、心地よい。
隣を歩く、手塚も気持ちよさそうに目を細めていた。

中学最後の大会を終えた今、差し迫った目標はない。
そのせいだろうか。
とても単純にテニスというスポーツを楽しんでいるような気がする。
ボールを追いかけることが、ラケットを思い切り振ることが、楽しくて仕方ない。
こんな風に感じられるのは、後悔しなくてすむような結果を残せたからだ。
そして、その結果を出せた大きな原動力のひとつは、今俺の隣を歩いている。

手塚がいたから、今の俺がいる。
それは間違いない事実だ。
とても大きな、とても大切な、存在。
俺の三年間は、ひたすら手塚を手塚を追いかける毎日だった。

艶やかな髪が、風に揺れる。
やや色の薄いその髪に、何度触れてみたいと思っただろうか。
手を伸ばしたい衝動を飲み込むと、自然と自分の口元が緩む。
もう、言ってしまってもいいか──。
すとんと肩から力が抜けた。

「手塚、明日もう一度この時間に会えないか」
「別に構わないが」
手塚は、歩く速度を変えずに答えた。

「そうか。じゃあ、頼む」
「理由を聞いていいか」
「明日、手塚に伝えたいことがある」
「今じゃ駄目なのか?」
俺の言葉に耳を傾けるようにして、手塚がこちらを向く。
無垢に思えるほど澄んだ瞳に、少し心が騒ぐ。

「うん。明日じゃなきゃ駄目だ」
「そうか」
「そうなんだ」

勿体をつけるのには、理由がある。
そうでもしないと、超えられないものがあるのだ。
ここまで来て、まだ意気地がない──。
思わず、笑ってしまうと、手塚が不思議そうな顔をした。

「明日は部活はない。どこで会う?」
「嫌じゃなかったら、校門の前で。どうかな」
「それでいい」
「明日、楽しみにしているよ」

明日の天気は、確か晴れのはずだった。
きっと、今日のように気持ちのいい青空の下で、手塚に会える。
それは、とても楽しいことに思えた。

「ああ、これって死亡フラグかな」
「え?フラグ?」
「ごめん。なんでもない」
死亡フラグなんて、手塚に通じるはずがない。
つい口をついた自分の言葉がおかしくて、俺はひとりで笑ってしまった。

でも、きっと、そんなことにはならない。
当たり前に朝が来て、当たり前に手塚に会えるだろう。
でもそこから先は、どうなるかわからない。
予想がつかないから、テニスも、手塚も怖い。
怖いからこそ面白くて、俺は惹かれてしまうのだ。

どの分岐点で、どんな選択をするか。
それが正しかったかどうかは、どうせ後になるまでわからない。
今は、精一杯悪あがきするのも悪くないと思うのだ。

2010.01.18

手塚は「死亡フラグ」なんて知らないと思う。

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