思い切りよく吸い込んだ瞬間、口の中が緑色になった。
──ような、気がした。
青臭い。
とにかく、ものすごい青臭かった。
それが緑黄色野菜の匂いだということは、嫌でも理解できた。
いわゆる青汁と呼ばれるものを、もっともっと凝縮したような味と言えばいいだろうか。
どろりとした感触の液体は、喉や舌に絡みつき、なかなか飲み下せない。
口の中から鼻に抜ける匂いに閉口しながら、なんとか飲み込むと、自分の喉がごくりと嫌な音を立てた。
なんだ、これは。
その言葉を実際に声にしなかった自分は、十分賞賛に値すると、手塚は思った。
もっとも、それを口にしようとしても、噎せ返るだけで言葉にしたくてもできなかったろう。
しかし、自分が今飲み込んだものの正体はともかく、製作者および所有者ならすぐにわかる。
手塚はストローの先に付着した緑色の液体から目を離し、かわりに近くにいるはずの長身を探す。
予想通り、乾は手塚のすぐ傍で、フェンスにもたれ掛かって休んでいた。
向こうも、手塚を見ていたらしく、すぐに目が合った。
「乾」
「ん?」
「すまない。間違えて、お前のを飲んだらしい」
レギュラーの部員は、それぞれ自分専用のドリンクボトルを持っている。
たまたま、今日の部活に乾が持ってきたボトルと、手塚が使っているボトルは、よく似ていたのだった。
しかもすぐ近くに並んで置いてあったので、うっかり間違ってしまったらしい。
左手に持っていた白地に青い文字の入っているドリンクボトルを、乾に向かって差し出した。
「ああ、それやっぱり俺のだったか」
「気づいてたのか?」
「うん、まあね」
梅雨が明け、綺麗に晴れた空を背景に、乾は暢気に笑っている。
「どうして黙っていたんだ」
ひとこと、それは俺のだと教えてくれれば、あんな青臭い飲み物を口にしなくて済んだのに。
間違えた自分が悪いことは、わかっている。
けれど、つい文句のひとつも言いたくなるような味だったのだ。
「いいデータが取れそうだったからな」
この暑いのに、上下しっかりとジャージを着込んだ乾は、けろりとした顔で言い放つ。
「手塚はなかなか俺の特性ドリンクを飲んでくれないだろう?だから、いいチャンスだなと思ってね」
いいデータが取れたよと笑う顔は、本気で嬉しそうだった。
だからといって、それは良かったなと一緒に喜んでやるほど、心は広くはない。
もうひとことふたこと文句を言うつもりだったが、外野の邪魔が入ってしまった。
「え?なになに。手塚、もしかして乾のまっずーい青汁飲んじゃったの?」
興味津々という表情で、菊丸が乾の横からぴょこんと飛び出してきた。
「へえ。罰ゲームでもないのに、物好きだねえ、手塚」
笑いながら背後から近づいてきたのは、不二だ。
「好きで飲んだわけじゃない。似たようなボトルだったから、間違えたんだ」
「あらら。そりゃ気の毒」
「せっかく今まで、飲まないで済んできたのにね」
口では、気の毒だとか可愛そうだとか言っているが、二人とも決して心の中では、そうは思っていないのは一目瞭然。
どう見ても、ただ面白がっているだけだ。
菊丸や不二ほど露骨ではないが、他の部員達も、明らかに目が笑っている。
だんだん、腹が立ってきた。
ミスをしたのは自分だから、余計に不愉快なのだ。
手塚は、乾の真正面に歩いていき、今は彼の手にある件のボトルを指差した。
「乾。それ、もう一回試していいか」
「え?」
驚く声が、同時にいくつも上がった。
乾でさえ、軽く目を見開いている。
だが、すぐにいつもの何を考えているかわからない顔に戻ってしまう。
「構わないよ。でも、本当にいいのか?」
「ああ」
「じゃあ、はい。飲む前に良く振った方がいいよ」
手渡されたドリンクボトルを左手で受け取り、アドバイス通りに上下に振る。
それから、ためらうことなく飲み口を咥えた。
もう一度、味わった乾のドリンクは、やっぱり物凄く青臭い。
しかし、さっきの衝撃は、もう感じなかった。
旨いか不味いかと言われれば、決して前者ではない。
さっき、あれほど衝撃的だったのは、きっと予期していなかったからなのだ。
覚悟をして飲めば、さほど辛くもない。
もっと冷やしておけば、さらに飲みやすくなりそうだ。
「飲めないことはないな。美味いとは言わないが」
「まあ、そうだろうな。それは、罰ゲーム用じゃないから」
少し軽くなったボトルを乾に返すと、受け取った乾は、にやりと笑った。
しかし、乾以外の部員は、明らかにがっかりしている。
それを見られただけでも、再トライした甲斐がある。
「これはあくまでオリジナルドリンクの試作品。いくら俺でも、普段の部活にペナルティー用を持ってきたりはしないよ」
それにしては、インパクトがありすぎのような気もするが、本人がそう言うならきっとそうなんだろう。
自分のように、うっかりミスをする人間が出てきたら儲け物くらいの狙いは、あるのかもしれないけれど。
たいして面白くもない結末に飽きたのか、部員達はそれぞれ練習に戻っていく。
長い休憩を取ってしまったことを反省し、部活を再開しようとした手塚に、ずっと乾とのやりとりを見ていた不二が、唐突に口を開いた。
「あのね」
「ん?」
ほぼ同時に、乾と手塚が声を出した。
「今、君達、間接キスしたんじゃない?」
「は?」
「え?」
短い返事は、またしてもほぼ同時だった。
「いや、だからさ。乾のボトルに手塚が口をつけたんだから、間接キスしたことにならない?」
間接キスという言葉を、知らないわけじゃない。
それが自分に向けられていることが理解できなかった。
うっかり顔を乾の方に向けてしまうと、向こうもマヌケ顔でこちらを見ていた。
急激に、かあっと頭に血が上る。
「ただの回し飲みだろう?」
精一杯落ち着いているふりをして答えたつもりだが、成功したかはわからない。
「まあ、そうとも言うけどね」
不二は、女生徒のように可愛らしく小首を傾げた。
「みんな日常的に、よくやっていると思うが」
実際、部活中には頻繁に見られる光景だ。
不二は、今度は逆方向に首を傾げて、ふふっと微笑んだ。
「うん。みんな、よくやるよね。でも、手塚が回し飲みしたことなんて、一度も見たことないけど」
「だから、なんだと言うんだ」
「別になんでもないけど」
なんでもないなら、思わせぶりな言い方はやめろ。
そう言い返してやろうと思ったが、少し遅かった。
「僕も練習に戻ろうっと」
不二は、くるりと方向を変えると、コートに向かって走って行ってしまった。
ずるいとは思ったが、逃げられたものは仕方ない。
動揺を隠すように、わざっとゆっくり歩き出した手塚のそばに、乾が静かに近寄ってきた。
「手塚」
「なんだ」
歩きながら、乾の方に顔を向けたが、逆光になっていて表情はよく見えなかった。
「俺、手塚となら間接的にじゃなくて、直接でもいい」
思わず、足が止まる。
同時に乾の足も止まった。
見上げた乾の眼鏡に、青空が反射している。
「ごめん。冗談だよ」
乾は低い声でそう言うと、手塚を追い越し走っていった。
走り去る後姿を見ていたら、だんだん腹が立ってきた。
趣味の悪い冗談だからか。
それとも、ごめんと謝られたことか。
わからないけれども、腹が立っていることだけは確かだ。
理由なんか知らない。
知りたくもない。
でも、なぜだろう。
冗談が冗談じゃなくなるような予感がする。
それこそ、理由なんか、ひとつもないけれど。
つい今しがた聞いた乾の声を思いだすと、なんとなく唇がくすぐったかった。
2010.04.01
アニプリで、手塚が乾のドリンクを飲んじゃうエピソードがありましたよね?あれが元ネタです。