今年の春は、不安定だ。
真夏並みに暑い日が来たかと思えば、突然季節外れの雪がふったりと、天候が落ち着かない。
今日も、朝は晴天だったのに、午後からどんどん気温が下がり、厚く積み重なった灰色の雲から、とうとう雨粒が落ち始めた。
放課後が来ても、雨は止まず、空の色はどんよりと暗い。
朝の天気予報では、雨の確立は低かったから、傘を持たないものが多そうだ。
手塚も例外ではなく、天気予報を信じて傘を持たずに登校してしまったが、たまたま部室に折りたたみの傘を置いてあった。
今日は部活がなかったので、休み時間のうちに顧問の竜崎先生に鍵を貸してもらい、自分の傘を取りにいった。
テニス部員達は、ちゃんと傘を持っているだろうか。
重苦しい色の空を見上げ、手塚は雨がひどくならない事を願いながら、自分の教室へと急いだ。
残念ながら、放課後になっても、雨は降り止まなかった。
窓から外を眺め、困った顔をしている者は多い。
自分に余分の傘があればいくらでも貸してやるのだが、こればかりは仕方ない。
折りたたみ傘を手に持ち、玄関に向かうと、手塚の前方に見慣れた長身が立っていた。
乾だ。
乾も、今帰るところらしい。
右手には、ちゃんと傘を持っていた。
天気予報をあてにせず、自分で必要だと判断したのだろうか。
乾なら、そうであっても不思議はない。
一年のときから同じテニス部ではあるが、わざわざ呼び止めるほど、親しくはない。
自分が靴に履き替えている間に、帰ってしまうだろうから、あえて声をかけなかった。
だが、手塚が外靴に履き替え、傘を開こうとしたとき、乾はまだ玄関先に突っ立ったままだった。
こちらに背を向けた状態だから、恐らく手塚には気づいてはいない。
乾の視線の先には、女生徒が二人並んで立っている。
名前は知らないが、顔をなんとなく見たことがあるような気がするから、多分三年生だろう。
どうやら二人とも傘を持っていなくて、帰るに帰れないでいるらしい。
大粒の雨が落ちる空を見上げ、なにか言い合っている。
手塚が反応するよりも先に、乾が歩き出していた。
二人の傍まで行って、話しかけているのが見える。
あまり大きな声ではないので、何を言っているのかまではわからない。
だが、何をしようとしているのかは、簡単に予想がつく。
乾は自分の傘を、二人に、貸そうとしているのだ。
手塚は、向こうからは死角になる角度を保ちながら、少しだけ近づいた。
そうすると、今度は三人の話声が聞こえた。
二人は、乾の差し出した傘を受けとっていいものか、迷っているようだ。
「乾君は傘なしで、どうやって帰るの?」
二人のうちの片方が、乾に向かってそう質問した。
「俺は、部室に置き傘があるから心配しなくていいよ。この傘なら二人くらい入れると思う」
「ありがとう。じゃあ、借りる。乾君、11組だよね?」
名前を呼んでいたから、同じクラスなのかと思ったら、そうではないようだ。
「うん。そう」
「じゃ、明日11組まで持っていくね」
「いつでもいいよ」
二人はなんどか乾に礼をいい、くっつくようにして乾の傘を差して帰っていた。
ふたりの姿が完全に消えてから、乾は自分の鞄を抱えるように持ち直した。
恐らくは、走り出そうとしていたのだと思う。
一向に雨のやまない空の下に、乾が出て行く前に、手塚は背中に向かって声をかけた。
「乾」
動き出そうとしていた乾の足が、ぴたりと止まる。
「手塚?」
声と同時に、顔がこちらに向けられた。
少し驚いたような表情だった。
「どうするつもりだ」
「…なにが」
すっと、乾の顔から表情が消える。
おそらく、わざとそうしたのだ。
「部室に置き傘なんて、ないんだろう?」
「なんでそう思う?」
「見ていればわかる」
乾は、小さくため息をついたが、すぐに笑顔に変わった。
「手塚にもバレるようじゃ、俺もまだまだだな」
「どういう意味だ」
「深い意味はないよ」
にやりと笑う顔は、部活中によく見せる表情に戻っていた。
「まあいい。とりあえず、入れ」
手塚は、乾の前で、黒い折り畳みの傘を開いた。
「いや、俺は」
「濡れて帰りたいのか?この気温だと、雨に当たれば、間違いなく風邪を引くぞ」
「…いいのか?」
「来週には練習試合があるんだ。お前に今、風邪を引かれると困る」
乾は、そうかと呟くと、軽く笑った。
「ありがとう。じゃ、遠慮なく入れてもらう」
「この傘に俺とふたりじゃ、ちょっときついかもしれないが、ないよりはましだろう」
「うん。助かるよ」
差し出した傘の中に、乾はするりと入ってきた。
手塚が歩き出すのに合わせて、乾も移動する。
自分から言い出したことだが、誰かと二人で傘を差すなんて、久しぶりのことだ。
しかも相手が乾だと思うと、妙に緊張してしまう。
これが部活中なら、そんな風には感じないはずなのに。
しばらく無言で歩いていると、乾が片手を持ち上げた。
「俺が傘を持つよ。腕が辛そうだ」
「別になんでもない」
「いいからいいから。俺が入れてもらってるんだから、持たせてくれ
そう言われてしまっては、断りにくい。
乾の方に傘を押し出すと、にっこりと笑って受け取った。
「うん。こっちの方がいいな」
自分の方が、背が高いからと言いたいのだろう。
並んで歩くと、確かに肩の位置が、はっきりと違う。
それが少し悔しい。
「お前、ずいぶん背が伸びたな」
「お蔭様で」
去年までは、ほとんど同じくらいか、むしろ少し乾の方が低いくらいだったはずだ。
それが、いつの間にか手塚を追い越し、今では5センチほどの差をつけられた。
ひそかに抜き返してやろうと思っているが、なかなか実現しない。
「手塚、ごめん。もうちょっと近づいてもらっていいか」
顔を上げると、自分を見ていた乾と目が合った。
「肩に雨がかかっている」
「これくらい平気だ」
「だめだよ、大事な肩を冷やしちゃ」
自分は雨の中を走るつもりだったくせに、乾は、そんなことを言う。
少しだけ乾との距離を縮めてみたが、それではまだ不足だったおうだ。
「ちょっと失礼」
乾は長い腕を背後から回し、手塚の肩をぐいっと自分の方に引き寄せた。
「うん。これなら多少はましだ」
手塚の肩に回した乾の手に、水滴が落ちる。
お前の手が冷えてしまう──。
そう手塚が口にする前に、乾の手が静かに離れた。
「悪いな。俺のせいで、窮屈な目に合わせちゃって」
「別に」
つっけんどんな返事になってしまったのは、どう答えていいかわからなかったからだ。
気を悪くしただろうかと思ったが、乾の態度に変化はなかった。
「ああ、小降りになってきたかな。空も、ちょっと明るくなってきたよ」
乾に言われて、見上げた空は、確かにさっきより少しだけ雲が薄くなっていた。
まだ、止まなくていいのに──。
ほんの一瞬だけれど、確かに今自分はそう思った。
どうしてそんなことを思ったのか、その理由はあえて考えなかった。
そうしない方がいいような気がしたのだ。
傘からはみ出して濡れてしまった肩なのに、さっき乾が触れた部分だけが不思議と暖かかった。
2010.04.29
急に肩を抱く(?)乾を書きたかった。
もしかしたら、相合傘を書くのは初めてだろうか。覚えてないなあ。