特別な意味を持つ夏が、とうとう終わったと感じたのは、テニス部を引退した瞬間だった。
振り返っても、本当に暑い夏だったと思う。
終わってしまうのが怖いと感じたこともある。
だが、実際に迎えてみると、案外すっきりしている自分がいる。
できることはすべてやったという達成感から来るものだろうか。
それとも、寂しさみたいなものは、もう少し時間が経ってから感じるものなのかもしれない。
ただ、部活に費やしていたはずの時間が、ぽっかりと空いてしまったのは事実だ。
一応受験生ではあるが、進路は半分くらい決まったようなものなので、それほど切羽詰ってもいない。
なので、引退直後は、空いた時間をどうやって埋めたらいいのか、少し戸惑った。
自分がどれだけテニス中心の生活を送っていたのか、思い知らされた。
だが、そんな時間も、長くは続かなかった。
空いた時間、を一緒に過ごす相手が出来たからだ。
しかもその相手は、元テニス部の部長、手塚国光だ。
不思議なことに、部活を引退してからの方が、手塚と過ごす時間が増えた。
きっかけは、後輩達への引継ぎ作業の多くを、手塚とふたりでやったからだったような気がする。
テニスから離れた話をしてみると、手塚は結構面白い。
それまでは、個人的なつきあいは皆無だったので、ちょっとしたことがいちいち新鮮に思えてしまう。
こうなると、テニスとは違うデータも集めたくなってしまう。
自分でも、困った癖だと思うが、止めるつもりはなかった。
天気のいい日は、昼休みに屋上に行ってみることにしている。
なぜかと言えば、手塚がいる可能性が高いからだ。
そういう約束をしたわけではない。
偶然が何度か続くうちに、いつのまにかそんな風になっただけだ。
今日も、朝からとてもいい天気だから、おそらく来るだろうと予想した。
弁当を持って教室を出るが、手塚のいる教室を確かめたりはしない。
行ってみたらそこにいるというのが、楽しいのだ。
そんなことを考えながら、重い扉を開けると、やっぱり手塚がそこにいた。
「やあ」
軽く手を上げて挨拶すると、手塚は、食べかけのサンドイッチを左手に持ったまま、目だけで応えた。
「今日はサンドイッチか」
勝手に手塚の隣に腰をおろし、同じような姿勢でフェンスにもたれた。
「お母さんの手製?旨そうだな」
「欲しいなら、食べていいぞ」
手塚が差し出したサンドイッチケースには、タマゴサンドと野菜サンドが交互に並んでいた。
どっちも美味しそうだったが、トマトの赤が綺麗だったので、野菜の方をもらうことにした。
「じゃあ、遠慮なく。かわりに好きなおかず持っていていいよ」
弁当箱の蓋をとって見せると、手塚は玉子焼きに手を伸ばした。
タマゴサンドが入っているのに、と思ったが、それとはまた別なのかもしれない。
手塚は玉子焼きが好き、と頭の中にノートを思い浮かべ、そこにメモした。
「美味しい」
手塚はそう言ってから、すでに使用済みの紙ナプキンで指を拭う。
そういえば、手づかみで玉子焼きを食べるところを、初めて見たかもしれない。
「サンドイッチも旨いよ」
ちゃんと保冷剤を入れていたらしく、野菜が新鮮だった。
屋上は、他に誰もいないので、とても静かだ。
なぜか、ここで手塚と会うときは、大抵貸しきり状態だ。
あまり口数の多くない手塚と、ぽつりぽつり会話しながらの食事は、不思議と楽しい。
何が楽しいのかと人に聞かれても、上手くは答えられない。
この空気が心地よいとしか、言いようがなかった。
食事を終えた手塚は、フェンスに持たれ空を仰ぐ。
伸ばした首は、相変わらず細い。
「空が高いな」
落ち着いた声で、手塚はそう呟いた。
早朝に雨が降ったせいか、いつもよりも澄んだ色をしている。
真っ青な空と白い雲のコントラストは、真夏とはまったく違う。
「ああ。巻積雲も濃い青も、典型的な秋の空だな」
「うろこ雲とは違うのか」
「それは俗称。巻積雲は、もっと細かく分類することもできるよ。説明しようか」
「次の機会に頼む」
ようするに、今は聞きたくないということだろう。
そう理解して、それ以上雲の話をするのは止めにした。
「ああ、そうだ。借りっぱなしだった本を持ってきたよ」
弁当と一緒に持ってきた文庫本を、手塚に向けて差し出した。
「どうもありがとう。面白かったよ」
「この作家の本なら、まだ何冊か持っている。読むなら持ってくるが」
「うん。読みたい。面倒じゃなかったら、お願いするよ」
「わかった。近いうちに持ってくる」
手塚は、今返したばかりの本を左手に持ち、空いた方の手で表紙をなでる。
そのしぐさがなんとなく気になって、ずっと目で追ってしまう。
「この本をお前が気に入るとは、思わなかったな」
本から目を離さずに、手塚が言った。
「意外かな?俺は、わりとジャンル問わずになんでも読むよ」
「小説よりもノンフィクションや実用書が好きなのかと思っていた」
「ああ、確かにそういうのも好きだ。でも、手塚が好きな本ってだけで、読む価値がある」
手塚は手を止め、驚いた顔でこっちを向いた。
「手塚がどんな作家が好きか、興味深い。その本も、手塚はどの部分が気に入ったのかを考えながら、読んでいたよ」
「それもお前のデータの一部になるのか?」
「そうだな」
笑いながら頷いたが、手塚はすっと視線を外し、黙り込んだ。
なにか気に障ることを言ってしまったのだろうか。
「お前は、独占欲は強いほうか」
手塚は、口は開いたが、相変わらずこっちを向かない。
「さあ、どうだろうな。自分では、あまり強いとは思わないけど」
少し考えてから、もう少し説明をつけたした。
「興味を持つ対象は沢山あるんだけどね。だからといって、必ずしも自分のものにしたいわけじゃないな」
なぜこんな話題を出すのだろうと思いながら、正直に言葉をつなぐ。
「好奇心を満たしてくれるなら、それでいいと思うのがほとんだね」
「対象が人なら?」
「ひと?」
つい聞き返すと、手塚と目が合った。
怖いくらい澄んだ目に、青空が反射する。
「誰かを欲しいと思ったことはないのか」
手塚の声は、ぴんと張り詰めている。
それに答えるのに、少しだけ緊張した。
「ない、かな」
「俺は、ある」
反応する時間もなかった。
気づいたときには、視界が遮られ、唇が塞がれていた。
それがなにかもわかっていなかった。
時間にしてみたら、多分数秒だったのだろう。
でも、その間、思考が完全に止まっていた。
視界を遮ったのは手塚の顔で、唇を塞いでいたのは、やっぱり手塚の薄い唇だった。
それを理解したのは、そのどちらも自分から離れていったあとだ
「なに、これ」
やっとそう口にしたとき、手塚はすでに立ち上がり、背中をこちらに向けていた。
見上げる空が、眩しすぎる。
「さっき、言った」
「え?」
手塚は、振り返らなかった。
「俺は、あるんだ」
手塚はそう言い残して、ひとりで屋上を出て行った。
ゆっくりと重いドアがしまり、鈍い音がした。
なにもできないまま、今、手塚が残して言った言葉を、頭の中で繰り返し唱える。
5回繰り返したところで、やっと意味がわかった。
手塚が欲しいもの。
手塚が欲しい『誰か』。
「俺、なのか」
まいった──。
顔が、熱くてたまらない。
意味がないかもしれないけれど、制服の襟もとのボタンをはずし、空を仰ぐ。
もたれかかったフェンスから、涼しい風が吹いてくる。
目の前に広がるのは、澄んだ青。
独占したいなんて、思ったことはない。
それは、本当だ。
俺の手にはあまりに大きすぎるから。
でも、部活を引退してからの時間を、どうして退屈せずに過ごせたのか。
ただ、並んで昼食をとるだけなのに、あんなに楽しかったのか。
どんな本を読んでいるのかを、知りたくてしかったなかったのか。
テニスで手塚に勝ちたいから、データが欲しかったなんて、言い訳になるはずがない。
「今さら、俺のものになってなんて、言えるわけがない」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
でも逆なら、どうだ。
俺が手塚のものになるのは、簡単なことだ。
きっと、明日になったら手塚は貸してくれるはずの本を持って、ここに来る。
そうしたら、手塚に言おう。
独占欲はあまりないけど、執着心なら人より強い。
三年近く見つめてきたのは、手塚一人だと。
それだけ言えば、きっと手塚にはわかるだろう。
本当はもうとっくに、俺は手塚のものなのだってことが。
2010.08.30
手塚は「俺のデータは取るくせに、俺自身には用はないのか?」って不満に思ってたんですよ。
俺を見ろって、強引に自分の方に向かせる手塚が好きです。