湿気の少ない空気に、強すぎない風。
背中には柔らかい日差し。
昼寝には、うってつけの天気だった。
自分以外は誰もいない屋上で、乾は何度目かわからない欠伸をした。
慢性的な睡眠不足の身では、こんな天気で、眠くならない方がおかしい。
それくらい今日は昼寝日和だ。
膝の上に開いたノートに、眠い目を擦りながら書いた文字は、きっと後から見直しても、判読できないだろう。
昼食の量が少し多かったろうかと考えてみたが、多分あまり関係ない。
夕べベッドに潜り込んだのは、とっくに日付が変わってからだった。
一応は勉強をしていて遅くなったのだが、受験に備えてのことじゃない。
単に、教科書を読み、問題を解くのが面白いからやっているだけだ。
他にも、乾の興味を引くものは、いくらでもある。
部活を引退したからといって、手塚のデータを集めるのを止めたわけではない。
読みたい本だって、見たい映画やテレビだって、山のようにある。
だが、自分にだけ一日が48時間があるわけでもなく、どうしても時間が足りなくなる。
そうなると減らすのは、自然と睡眠時間になってしまう。
結果として、慢性的な睡眠不足に陥るわけだ。
連日ぎりぎりの睡眠時間だと、困ったことに授業中にも眠くなってしまう。
今日も午前中の授業で、何度か強烈な眠気に襲われてしまった。
午後の授業に備えて、冷たい風にでも当たろうと、昼休みに弁当を持って屋上までやってきた。
扉を開いたときは、風が心地よくて目が覚めたけれど、結局は同じことだった。
今日のように、穏やかに晴れた日は、じっとしていたら眠くて眠くてどうしようもなくなる。
眠気覚ましにデータでも整理しようと試みたが、一度目を閉じてしまったらもうだめだ。
膝の上に置いたノートが落ちてしまいそうなのをわかっていながら、重たい瞼を、どうしても開けない。
ああ、ものすごく気持ちがいい──。
今眠ってしまっても、誰にも叱られるわけじゃない。
寝過ごしてしまったら、ちょっとまずいが、言い訳なんかはどうにでもなる。
そう思ったら、気が抜けてしまったようだ。
結局そのまま、金網にもたれて眠ってしまった。
それが五分だったのか十分だったのか、自分ではよくわからない。
鉄の重い扉が軋みながら開く音を、聞いたような気がする。
夢の中のことか、現実なのか。
今、目を開いているのか閉じているのか。
それも、わからなかった。
目を開かなくちゃと、ぼんやりと考える。
次の瞬間に、気づいた。
誰かが、右手に触っている。
これも夢のなのだろうか。
でも、なんだか胸が騒ぐ。
ふっと、自然に瞼が開いた。
目の前には、手塚の顔があった。
「あ」
乾が口を開くと、すうっと手塚が身体を引き、立ち上がった。
反射的に自分の右手を見てみる。
当たり前だけれど、そこには何の痕跡も見当たらない。
でも、確かに何かが乾の右手に触れたのだ。
なんとなく、気配のようなものが残っていた。
「今、俺の手、触った?」
手塚の顔を見上げて、聞いてみた。
茶色がかった髪の毛が、風に揺れている。
「ああ」
言いにくそうではあったが、ごまかしたりしないのが手塚らしい。
「ペンを持ったまま寝ていたから」
そう言って、手塚が乾にペンを差し出した。
確かに、さっきまで乾が使っていた、愛用のシャープペンシルだった。
「ああ、そっか。ありがとう」
ペンを受け取り、制服の胸ポケットに差す。
膝の上に置いたはずのノートは、脇に滑り落ちていた。
ノートを閉じて、ほこりをはらうのを、手塚は黙って見ている。
どうしてここにいるのかとか、何をしているのかとか、聞く気にはなれなかった。
かわりに、今、手塚に言いたいことがある。
「手塚」
「なんだ」
「手、触っていい?」
唐突な申し出にも、手塚の表情は変わらない。
何を考えているかわからない静かなな顔で、乾を見ている。
「別にかまわないが」
手塚は、ためらうことなく正面から左手を差し出した。
制服の袖からのぞく手は、テニスをやっている人間にしては、白い。
目の前の左手を、黙ってつかむ。
手塚は、動かない。
乾は手を開き、手塚と指を組み合わせるように握りなおした。
少し力を入れると、手塚も同じように力が込める。
心臓が、どくんと鼓動を大きくした。
ほんの一瞬だけど、唇を重ねたこともある。
背中を抱いたことだってあった。
なのに、こんな風に手に触れたのは初めてだ。
爪は短く切ってあり、手の甲には筋が浮いている。
掌は硬く、指が細長い。
肌のきめは、おそろしく細かい。
手だけ見ても、手塚らしいと思えた。
鉛筆を握る手。
箸を持つ手。
本のページをめくる手。
そして、ラケットを握る手。
この手が、あんな奇跡のようなボールを打つのだ。
とても愛しくて尊い、手塚の左手。
その手が、今自分の手の中にある。
これ以上、こうしていたら二度と離せなくなりそうだ。
「ありがとう。もういいよ」
告げた声が掠れていたのを、手塚が気づかなければいいと思った。
乾が手の力を緩めても、手塚は離そうとしない。
「手塚?」
「もう少し」
それだけを言って、手塚はもう一度繋いだ手に力を込めた。
返事のかわりに、乾も力を込める。
三年間近くにいて、初めて知った。
繋いだ手塚の利き手は、とても温かいということを──。
2010.09.28
利き手が違う二人に萌える。