Advent −待降節

「そろそろ、切ろうか」
料理の皿とワイングラスが空になった頃、乾が、そう切り出した。
「じゃあ、俺が紅茶を淹れよう」
立ち上がった手塚の頬は、ほんの少しだけ色づいている。
アルコール全般に強いのに、なぜかワインだけは酔っ払ってしまうのだ。

「カップを割らないように気をつけて」
「そこまで酔ってない」
キッチンへ向かう手塚の足取りは、確かにしっかりしたものだ。
乾は笑いながら、備え付けのパントリーを開き、目的の物を手に取った。

取り出したのは、白い粉砂糖をまぶした平べったいパンに似た菓子。
買ってきたときは、もっと長かったのだが、すでに三分の一くらいが消えてしまった。
砂糖を撒き散らさないよう気をつけつつ、ナイフの刃を差し込む。
普通の食パンを薄くスライスするのは難しいが、このパンは生地がしっかりしているので、簡単に切れた。
とたんに、ラム酒の甘い香りと、ドライフルーツの酸味のある香りが立ち上ってくる。

薄く切ったものが一枚きりでは寂しいから、ふた切れずつ皿に載せてみた。
いつもは銀のフォークを使うが、今日は金色のを選んだ。
その方が華やかでクリスマスらしい気がした。
白い菓子と金のフォークを、テーブルへと運ぶ。

そこには、小さなガラスのクリスマスツリーと、天使が閉じ込められたスノードームが待ち構えている。
どちらも去年の12月24日に、互いに贈ったプレゼントだ。
この部屋の窓を開けても、一片の雪も見られないけれど、ダイニングテーブルの上だけは、聖なる夜の風景だった。

空いた食器を片付けて、もう一度綺麗にセッティングしなおしていると、背後から手塚の声がした。
「紅茶が入った」
「ありがとう。こっちも用意できた」
最後の仕上げに湯気の立つ白いティーカップを並べる。
テーブルを彩る、赤と白と緑と金。
どこからどうみても、クリスマスだ。

急いで買ったばかりのデジタルカメラで、イブの食卓を撮影した。
数時間前に、手塚から贈られた、写真立てに飾るためだ。
今夜の食卓は、赤と緑のクリスマスカラーのフレームに、きっと良く映えるだろう。
「あとで、プリントして飾るよ」
馬鹿にされるかと思ったが、先にテーブルについた手塚は軽く微笑んでいるだけだった。

「いい匂いのお茶だな」
乾も席につき、ティーカップを持ち上げると、フルーティーな甘い香りがした。
「自分で、香りを確かめて選んだんじゃないのか」
「一応はね。でも、淹れた状態とは少し違う」
今日の紅茶は乾が手塚に贈った、冬季限定の茶葉だ。
茶葉が入っていた缶には、プレゼントを抱えたウサギのラベルが貼ってあった。

「さて、メインを頂こうか」
乾の言葉に、手塚がくすりと笑う。
「今日のメインはこれだったのか」
「実はそうなんだ」
今夜のメニューは、定番のローストチキンや魚介類のマリネなどが並んでいたが、乾が一番楽しみだったのは、この粉雪をまぶしたようなお菓子だった。

乾がシュトレンを買ってきたのは、ただの気まぐれだった。
三週間ほど前、たまたま立ち寄ったデパートでドイツフェアが開催されていて、なんとなく覗いてみようという気持ちになった。
季節柄なのか、並んでいるのはクリスマスに関連した商品が多く、パンのような伝統菓子も、そのうちのひとつだった。
ここ数年で、ずいぶんと目にするようになっていたから、シュトレンという名前くらいは乾も知っていた。
結構美味しそうに見えるし、試しにひとつ買ってみることにした。
長くドイツで暮らしていた手塚なら、喜ぶかもしれないという単純な発想だ。
大中小とサイズがあり、乾は中くらいのを選んだ。
それでも、持ち上げるとずっしりと重かった。

「シュトレンを買ってきたよ」
家に帰って手塚に見せると、思った以上の反応が返ってきた。
「どうしたんだ?これは」
すぐに傍に寄ってきて、乾の手からシュトレンを受け取り、しげしげと眺めている。
いつもは乾の買い物の中身になど、まったく興味を示さないのに。

「デパートでドイツフェアをやっていてね。美味しそうだったから、買ってみた」
「久しぶりで見たな」
最近では、そう珍しくもないけれど、手塚は滅多に自分からパン屋やケーキ屋には行かないから、目にしたことがないのだろう。
「俺、一度も食べたことないんだ。手塚はある?」
「ああ。何度もある」

とても保存の利くお菓子で、ドイツではクリスマスを待つ四週間の間に、少しずつ味わうのだと教えてくれた。
クリスマスから遡る四週間は、神の降臨を待つアドヴェントと呼ばれる期間で、その各週末に薄く切ったシュトレンを食べるのが慣わしだそうだ。
すでにクリスマスまでは三週間しかなかったが、一応はドイツの伝統に倣って、自分たちも少しずつ味わってみることにした。

そして、クリスマスイブの今夜は、ケーキの変わりにシュトレンをデザートにした。
今日まで、減るのを惜しむように、できるだけ薄く切って食べてきた。
それがどんな風に味が変化したかを確かめるのが、朝から楽しみだった。
金色のフォークを手に取り、さっそく口に運んでみると、ふわっとラム酒の香りがした。

「ああ、最初よりも、しっとりしてきたかな」
乾の言葉に、左手にフォークを持った手塚が頷く。
「そうだな。味が全体に馴染んでる感じだ」
最初の頃は、もっと材料ひとつひとつの味が、表に出ていたように思う。
今は全部が混ざり合って、複雑な風味に変化している。
例えるならば出来立てはパンに近く、今はフルーツケーキのような食感だ。

「手塚が食べたのと同じ味がするか?」
「随分前のことだからな。でも、こんな感じだったと思う」
手塚は、昔を懐かしむような遠い目をして微笑んでいた。
今の一言をきっかけに、自然とドイツでのクリスマスの過ごし方の話になった。
そのうち、話題は広がっていき、留学時代やプロになったばかりの頃まで及んだ。

今夜の手塚は、珍しいことに良く喋った。
表情はいつも通り静かだったが、レンズの向こうの瞳はとても楽しそうだった。
こんな風に、乾の知らない頃の話をする姿は、初めてみたかもしれない。
話しすぎて喉が渇いたのか、途中で二杯目の紅茶を淹れてくれた。

手塚が日本に戻ってきたばかりの頃は、誕生日やクリスマスは、やたらと張り切っていたように思う。
どこで祝うか、何を贈るかを、随分と早い時期から計画を立てていた。
今年のクリスマスは、特別なことは、なにもしなかった。
ワインで乾杯して、小さなプレゼントを贈りあっただけだ。
これくらいのささやかさが、今の自分達には、ちょうど良かった。
むしろ、ほんの少し特別であることが、何よりも贅沢だ。

手塚と離れていた時期は、決して短くはない。
一度は、完全な決別も覚悟した。
乾の最後の賭けに、手塚が乗らなかったら、今のこの生活はない。
お互いの気持ちを確認して、一緒に暮らすようになってからも、過去を詮索しないだけでなく、ただの思い出を語ることさえ遠ざけていた気がする。
わざわざ苦しかった頃、背中を向け合っていた頃のことを、呼び起こしてはいけないと思い込んでいたのかもしれない。

だけど、途切れていた時間を、こうやって少しずつ埋めていくのは楽しいことなのだと、今は知っている。
過去に何があったとしても、構わない。
目を背けても、事実は変わらないし、今さら何も揺らいだりしない。
全部ひっくるめて、今の手塚がいて、自分がいる。
ふたりで過ごしてきた時間も、一人ずつの時間も、全てが愛しくて尊いものだ。

もう怖がる必要はない。
時間は誰にも、等しく残酷で、等しく優しい。
十代後半を過ごした場所の話をする手塚の顔には、中学時代の彼の面影がだぶって見えた。

「手塚が住んでいた場所を、俺も見てみたいな」
乾が呟くと、手塚は目を細めて微笑んだ。
「そうだな。いつか行ってみるか」
昔は、『いつか』なんて日は来ないと思っていた。
でも、今は信じられる。

乾は、あと一口分くらいしか残っていない自分の皿を、じっと見つめた。
過ぎた日々にとらわれる事を確認させてくれたのが、素朴で甘いお菓子だったことが、自分でもおかしかった。
神様を待つために作られたものには、なにか特別な力がこもっているのかしれない。
それとも、これは神様からの贈り物なのだろうか。

会ったこともない誰かさんの誕生日にかこつけて、誰よりも大切な人との時間を楽しむ。
もう戻ってこない時間を思い、これから続く日々が穏やかであるようにと願う。
一年に一度くらいなら、そんな夜があってもいい。
特別な日にしなくていいと思っていたけど、クリスマスはやっぱりクリスマスなのだろう。

「美味しかったね」
「ああ」
シュトレンは、パントリーの中に、あと少しだけ残っている。
二人きりの聖なる夜は、もう少しだけ続くことになりそうだ。


2008.12.25

いただきもののシュトレンを切っていて、ふと思いついた。
ドイツに行ったのなら、きっと手塚には食べる機会もあったんじゃないかな。

オフリミのイベント関連の話は、いつも食べ物がメインだ。ちょっと恥ずかしい。