CAFFEIN
久しぶりに、夜中に目が覚めた。子どものころから寝つきはいいし、眠りも深いので、こんなことは滅多にない。
手探りで枕もとの時計を探し時刻を確かめてみると、午前三時を半分ほど回っていた。
この季節だと、夜明けまではまだ遠い。
悪い夢を見ていたわけでも、布団を蹴飛ばして寒くなったわけでもない。
どうして、いきなり目が覚めたのか、不思議だ。
暗闇の中、戸惑いながら寝返りをうってみる。
肩の辺りから、冷えた空気が入り込んできて、急いで毛布をかけなおした。
すぐ近くからは、乾の規則的な寝息が聞こえてくる。
暗いだけでなく眼鏡もないので、表情までは見えないけれど、目を覚ました気配はない。
起こしてしまわなくて良かったと思いつつも、なんとなく物足りない感じもする。
眠気を待ちながら、ぼんやりと乾の寝顔を見つめているうちに、少しずつ目が闇に慣れてきたようだ。
今は、枕に下半分を埋めた白い顔が見える。
乾は、たいていの場合、手塚のいる側を向いて眠るのだ。
いつもなら、たとえ目を覚ましても、一度まぶたを閉じなおせば、すぐにまた眠りに引き戻される。
なのに、今夜はなかなか眠気が戻ってこない。
珍しいこともあるものだ。
原因をあれこれ考えてみたが、これといって思い浮かばない。
食後のデザートに食べたチョコレートのせいってこともないだろう。
普段はあまり甘いものは食べない。
だが、今日はバレンタインだから、ちょっと贅沢なチョコレートを買ったのだと、乾は笑っていた。
チョコレートは、ビターなものが好きだ。
今夜乾が買ってきたのは、限定販売だとかいうオランジェットだった。
とてもいい香りのするオレンジピールと、ほろ苦い濃厚なチョコレートの組み合わせは絶妙だった。
自分にしては、沢山食べてしまったと思う。
たっぷりカカオが入っている感じのビターなチョコレートは、確かに贅沢なものだろうと、手塚でも想像できた。
ということは、カフェインの含有量も多いということか。
ならば、多少は睡眠に影響する可能性もあるのだろうか。
朝になってから、乾に尋ねれば、きっと嫌というほど丁寧に説明してくれるだろう。
それよりも、お前の買ったチョコレートのせいで眠れなかったと文句を言ってやるべきか。
こっちは眠れずに困っているというのに、やけに気持ち良さそうに眠る男の顔を見ていたら、そんなことも言いたくなる。
それにしても、乾の寝顔は呆れるほど、安らかだ。
起きているときの、意地の悪い表情とは大違い。
なにもかも見透かしそうな切れ長の目を閉じているせいか、眠る顔は優しげにさえ見えてくる。
よほどいい夢でもみているのだろうか。
目の前の男は、あまりに幸せそうで、少し憎らしいくらいだ。
いっそのこと、今すぐに叩き起こして、責任を取れと訴えてみるか。
そんなことを考えてはみるけれど、実行に移すつもりはない。
しかし、目が冴えるばかりでちっとも眠くならないこの状態で、ぼうっと寝顔を眺めているのも馬鹿馬鹿しい。
眠るのを邪魔しない程度の、ささやかな悪戯くらいなら許されるかもしれない。
そういえば、中世ではチョコレートには、媚薬が含まれていると考えられていたのではなかったか。
じゃあ、多少色っぽい悪戯をしても、それも乾のせいにできそうだ。
お前が、俺にチョコレートを食べさせたのが悪いのだと──。
試しに、そうっと手を伸ばして頬に触れてみる。
乾の反応はない。
今度は、少し顎を持ち上げて顔の角度を変えてみたが、やっぱり乾は眠ったままだ。
これなら、大丈夫だ。
そう確信して、ゆっくりと身体を乾の方に近づける。
そして、ほんの少しだけ隙間の開いている唇に、ごくごく軽く自分の唇を重ねてみた。
硬質な顔に不似合いな、柔らかい感触。
一瞬だけ、それを味わって、すぐに唇を離した。
馬鹿みたいな悪戯だけど、気分はいい。
くすりと笑った瞬間、乾が目を開いた。
「…今、俺になにかした?」
寝起きだと言うのに、やけに明瞭な発音だ。
「別になにも」
答えたこちらの声の方が、掠れていた。
「そうか。キスされた気がしたんだが」
「夢を見たんだろう、きっと」
乾は今目を覚ましたと思えない顔で、にやりと笑った。
「なるほど。もったいないことをしたな。もっと眠っていれば良かった」
「今すぐ眠れば続きが見られるんじゃないか」
「試してみるよ」
口元に笑みを残したまま、乾は再び目を閉じた。
その顔に、もう一度唇を近づける。
触れるまで、あと少しのところで、また乾が目を開いた。
「ところで、なんで手塚は起きてたんだ?」
「一度目が覚めたら、眠れなくなった」
「チョコレートの食べすぎかな」
「だとしたら、お前のせいだな」
あっさりと望む答えを口にする男に、用意しておいた文句を返す。
「責任、取ろうか?」
「どうやって」
「こうやって」
乾は、毛布の中に隠れていた腕をするりと手塚の背に回し、そのまま広い胸に抱きしめた。
「眠れるまで、ずっと抱いててあげるよ」
「これで眠れるのか」
「うん。多分ね」
耳の傍で囁く声は、中毒になるような甘さがあった。
ときには、手塚を昂ぶらせる艶やかな声が、今はただ優しく心地よい。
ビターなチョコレートを食べた後には、この甘さがちょうど良い。
そんな声に名前を呼ばれたら、確かに良く眠れるかもしれない。
それとも媚薬成分の方が強すぎて、かえって眠れなくなるだろうか。
2010.02.17
オフリミ設定。
夜中に目が覚めるっていう状況が好きなんだ。