cherry cherry

春が来るたびに思い出すのは、淡い色の花びら。
風は花を散らし、髪を揺らす。
胸が痛くなるほど綺麗な花があるのだと、初めて知った朝だった。



空気が暖かい。
会社から出たとき、外がまだ明るいことに、少し驚いた。
定時に仕事を終えたのは久しぶりだ。
いつの間にか、こんなに日が長くなっていたのか。
三月の初めと後半では、たった一月のうちでも季節がまったく違うように思える。
冬は嫌いじゃないし、春が特別好きな季節というわけでもない。
でも、色彩の少ない景色が、徐々に華やいだ風景に変わっていくのは、やはり嬉しいものだ。
春の空気を楽しみながら、家路を急いだ。

マンションに戻ると、手塚は外出していた。
事前に、今日は少し遅くなると聞いていたから、驚くことはない。
ここ最近、手塚は忙しい。
今後の進むべき方向に関わることだ。
本当は、色々と手も口も出したくなるところだが、今はじっと見守るだけに留めている。
手塚は、一度こうと決めたら、誰が何を言おうとまっすぐに進む奴だ。
俺の手助けなんて必要はない。
もし、本当に手を貸してほしいなら、きっとちゃんとそう言ってくれる。
だから、そのときまでは、俺は傍観者でいるべきだと思っている。

久々に早く帰宅できたから、今夜は凝った料理でも作ろうか。
冷蔵庫の中身を思い浮かべながら、着替えを済ます。
大体のメニューを決め、作る手順を考えたところで、手塚が帰ってきた。
タイミングがいいのか、悪いのか。
でも予想よりも早い帰宅は、素直に嬉しい。
開きかけた冷蔵庫のドアを閉めなおし、玄関へと急いだ。

「おかえり。早かったね」
「ただいま」
スーツ姿の手塚は、俺の顔を2秒ほど見ただけで、他には何も言わなかった。
春らしい明るいグレーのスーツは、手塚に良く似合っている。
あえてネクタイを締めないのが、手塚らしい。

「お疲れさま。夕食、これから作るけど何かリクエストはあるかい?」
「和食ならなんでもいい。任せる」
手塚は、襟元のボタンを外しながら答えた。
少し疲れた顔をしているが、それが色っぽく見えてしまうから困る。

「じゃあ親子丼とかでもいいか?」
「いいな。着替えたら、俺も手伝う」
「ゆっくりでいいよ」
かすかな笑顔を見せてから、手塚は着替えのために自分の部屋に向かった。
その後姿に、ふと目に付くものがあった。

「あ、ちょっと待った」
「ん?」
「動かないで」
素直にその場にぴたりと止まる手塚のところに、ゆっくりと歩いていく。
柔らかい茶褐色の髪の毛に、小さな花びらがふたつ。
それを、注意深く拾い上げ、自分の手のひらに載せた。

「ほら。桜のお土産」
文字通りに、本当に淡い桜色だ。
それを見た手塚が、ふっと目を細めた。
「ああ、木の下を歩いてきたからだな」
しっとりと優しい色の花びらは、男の手の上では小さく見える。

「綺麗だね」
「そうだな」
短い言葉を交わしながら、思い出したことがある。

ずっと前にも、今と同じようなことがあった。
まだお互い学生服を着ていて、校門のわきの桜並木を歩いた朝。
舞い落ちる桜の花びらが、手塚の髪を彩った。
細い褐色の髪の毛と淡い桜色。
誰かを、あんなに綺麗だと思ったのは、初めてだったかもしれない。

手塚は覚えているだろうか。
多分、その問いを口にする必要はない。
手の上の花びらを見つめる瞳の色を見れば、手塚が今何を思っているかわかるから。

あの頃は、手塚一人の未来は想像できても、俺と手塚がどうなるかなんて、まったく見えなかった。
なのに、5年経とうが10年経とうが、ずっと手塚を好きでいるような予感だけがしていた。
そして今、手塚は俺の前にいて、同じ春を迎えている。
俺と手塚の間に起きた、ささやかな奇跡に感謝――。

「桜も、そろそろ終わりだな」
手塚は、花びらから目を離さずに言う。
いつのまにか、シャツのボタンは、全部外れていた。
その肌に、この花びらを散らしてみたいと思ったのは内緒だ。
「そうだね。ところで、この花びら、どうしようか」
取っておけるものではないけれど、捨ててしまうには、あまりに愛しい色をしている。

手塚は黙って、その二枚の花びらを自分の手に乗せ、窓に向かって歩いていく。
それから、静かにガラス窓を開き、外に向かって手を開いた。
やがて、春の風が、やわらかい花びらをさらった。

儚い色の花びらは、ひらひらと空を漂い、やがて薄闇の中にまぎれて見えなくなった。


春の終わりの、あたたかい夜の話。


2011.05.08

去年の手塚誕生日祭に再アップした「春を集めて」の続きにあたります。といっても、あれを書いた頃は、このシリーズは書いていなかったはずなので、後出し設定。
以前、「さくら、さくら」というタイトルをつけたことがあるので、今回は「cherry cherry」。われながら恥ずかしい。

手塚に桜はものすごく似合うので、春が来るとどうしても「桜」の出てくる話を書きたくなるのであった。