CHOCOLATE HOLIC
今年の冬は、とにかく寒い。立春を過ぎても、春の気配はまだ遠いようだ。
夕食を終えてからベッドに入るまでの間に、毎日なにかしら飲み物を口にするが、こう寒いとどうしても暖かいものが欲しくなる。
乾も自分も、カフェインで眠れなくなることはないから、遅い時間であってもコーヒーや紅茶を楽しめる。
そして、その日あった出来事や、今読んでいる本の感想などを語り合う。
忙しい毎日の中で、カップ一杯分をゆっくりと味わいながら過ごす時間は、大事なものになっていた。
今夜も、こまごまとした用を終わらせ、やっとリビングのソファに腰を下ろしたとき、見計らっていたように乾から声をかけられた。
「手塚、ホットチョコレート飲まないか」
「珍しいな」
思わずそう口にすると、乾は軽く笑って見せた。
「たまにはいいかと思って。どう?」
「作ってくれるのなら飲む」
「じゃ、作ってくる」
多分、手塚に声をかけた時点で、作るつもりになっていたはずだ。
だから、素直にそれに甘える方が、乾は喜ぶだろう。
それにしても、ホットチョコレートとは珍しい。
乾も手塚も、日頃は、あまり甘い飲み物を好まない。
コーヒーや紅茶は常にストレートだし、冷たい飲み物も甘みのないものを選ぶ。
多分、中学くらいからそうだったように思う。
だけど、もっと小さかった頃は、冬になるとよくココアを飲んだ。
寒い夜に、ふうふう言いながら飲む熱々のココアは、とても美味しかった記憶がある。
乾も同じように、懐かしい気分を味わいたくなったのかもしれない。
「お待たせ」
「もうできたのか」
ホットチョコレートとは、どうやって作るのかよく知らないが、もっと時間のかかるものかと想像していた。
乾は何も言わずに、愛用のマグカップをひとつずつ、ソファの前にあるローテーブルの上に置いた。
卵色のマグカップにたっぷりと注がれたのは、真っ白なホットミルクだった。
白いホットチョコレートか?
そう尋ねる前に、乾はまたキッチンへ戻っていった。
ということは、まだ何かあるということか。
人を驚かせるのが好きな乾なら、ありえる話だ。
それならば、おとなしく待ってみよう。
手塚は黙って、乾が戻ってくるのを待つことにした。
「はいこれ」
乾は手塚の前に、綺麗な茶色の小箱を置いた。
すでに蓋は開いている。
「これ何かわかる?」
「チョコレートだと思うが」
思うなんて言い方をしたのは、手塚が初めて見るものだったから。
細い棒のようなものの先に、キューブ型のチョコレートにしか見えないものが刺さっている。
それが4本、浅い茶色の箱に収まっていた。
「そう。チョコレートだよ」
「もしかして、この牛乳に溶かすのか?」
「大正解」
笑いながら乾は、手塚のとなりに座った。
その場所は、はじめから乾のために空けてあった。
「これを、カップに入れてゆっくり溶かすとホットチョコレートになるってわけ」
そう言われれば、どこかで似たようなものを見たような気がする。
「さあ、冷めないうちに飲もう。ビターとヘーゼルナッツがあるけど、どっちがいい?」
「じゃあビター」
「そう言うと思った」
乾は小さく笑って、チョコレートを一本、手塚の前に差し出した。
それを受け取り、そっとミルクの中に沈めてみた。
こぼさないように気をつけながら、ゆっくりとかき混ぜる。
こんな塊が、本当に溶け出すものだろうか。
何度か回転させてから、ミルクから引き出してみた。
「ああ、小さくなっているな」
思わず声に出してしまった。
「うん。意外と簡単に溶けるものなんだな」
乾も同じように、チョコレートの溶け具合を確かめていた。
カップの中では、真っ白だったミルクがココアのような色に変わりつつある。
気がつくと、チョコレートの香りがどんどん広がっていた。
「もういいかな?」
乾がスティックを引き上げると、キューブ状のチョコレートは、完全に消えていた。
手塚も確かめてみたが、やっぱりなくなっている。
「俺のも溶けたようだ」
ふたりで目を合わせてから、ほぼ同時にカップに口をつけた。
ココアとは違う、とろりとした独特のこくのある味わいだ。
ビターのチョコレートだから、見た目ほどは甘くない。
やはり、これは大人のための飲み物なのだろう。
「旨い」
お世辞ではなく、本当にそう思った。
「こっちのヘーゼルも飲んでみるか?」
「じゃ一口」
乾とカップを交換し、一口飲んでみた。
ビターを味わった後だからか、こちらは少し甘みを感じた。
だが、ナッツ独特の香ばしさがあって、これもなかなかに美味しい。
「いい風味だな」
「ビターも美味しいよ」
もう一口ずつ味わってから、またカップを取り替えた。
「これは、やっぱりバレンタインだからなのか」
「まあね」
右手にカップを持ち、乾が軽く微笑んだ。
照れているようには見えない。
「お前、これ自分で買ったのか?」
「もちろん。でも今日じゃない。事前に買っておいた」
照れるどころか、平然としていられるのが、手塚には理解できない。
確かにこのホットチョコレートは、大人向けで美味しいけれど、男二人には雰囲気が甘すぎる。
手塚の考えることを見透かしたように、乾が意味ありげな視線を向けてきた。
「これくらいなら、かわいいもんだろう?」
「自分で言うか?」
乾は、だまって笑ってから、大きな手に持ったマグカップを静かに傾けた。
手塚もそれにならって、カップの中身をゆっくりと味わった。
ほろ苦いチョコレートは、まだ熱い。
これくらならかわいいもの。
さっき乾はそう言った。
長いつきあいになった今、誕生日やクリスマスであっても、あまり大げさなことはしなくなった。
バレンタインも、まったく同様だ。
今年も、特別なことはなにもするつもりはなかった。
だが、今年は、乾のためにプレゼントを買ってしまったのだ。
たまたま立ち寄った革製品を扱う店に、洒落たブックカバーが置いてあった。
しっとりした手触りのいい革で、深みのある茶色。
まさにチョコレート色だ。
ブックカバーには細い栞紐がついていて、その先には小さな金色のチャームがついていた。
よく見ると、それは板チョコの形をしていた。
これを2月14日に贈ろうか――
チョコだと気づいた瞬間、そんなことを思いついていしまったのだ。
プレゼント用のラッピングをしてもらい、家に持ち帰ってから急にこれで良かったのかと思い始めた。
ブックカバー自体はシックなデザインだし、革も良さそうに見える。
問題は、チョコレート型のチャームだ。
見つけたときは、本物のチョコレートを贈るよりも、後々まで使えるものの方がいいように思った。
しかし、そこそこいい年をした男へのプレゼントには、あまりにかわいらしすぎるのでないか。
一度そう思ってしまうと、もう駄目だった。
すっかり、渡せる気がしなくなり、結局は乾の目の届かないところにしまい込んでしまった。
それから約一週間。
バレンタインデーのことは、あまり意識しないようにしていた。
しかし、考えないように努力するのは、それを忘れてない証拠でもある。
ブックカバーのことだって、ずっと気になっていた。
せっかく買ったのだから、乾のようにあっけらかんと渡してしまうのも、手だったのかもしれない。
つきあいが長いから、今さら特別なことをする必要はない。
それは間違いではないが、たったひとつの正しい解答でもないだろう。
ずっと一緒にいるからこそ、たまに照れくさくなるような出来事があるのも、いいのかもしれない。
だけど、自分には乾のように、さらりと振舞うのはできそうにない。
「どうした?ずいぶん静かだな」
「別に。じっくり味わっていただけだ」
「そうか」
ちらりと隣をうかがうと、乾は黙って目を細めた。
ガラス越しの黒い瞳を見ていると、いつもなにもかも見透かされている気分になる。
そして、きっとそれはただの想像というわけでもないのだ。
手の中にあるのは、カップに注がれたチョコレート。
手塚の机の中に隠しているのも、食べられないけれど、チョコレート。
今日以外だったら、そんなに深い意味はないものなのに。
さて、自分は今、どうしたらいいのだろう。
答えは、まだ見えてこない。
でも、なんだかそれも楽しい気がしてきた。
カップの中のチョコレートは、まだ冷めない。
これを飲み干すまで、手塚は、ゆっくりと考えることにした。
暖かくて甘い飲み物は、それだけでちょっと幸せになるようだ。
2012.2.25(2012.03.22一部修正)
乙女な手塚です。結局、渡すんだろうなあと思う。