14日の金曜日

今年の3月14日は、絶対残業しない。
俺が、そう決意したのは、約ひと月前のことだ。
職場の机の上に置いてあるカレンダーには、自分にしかわからない程度の印をつけた。
それだけでは不安なので、PC上で使うスケジュール管理ソフトでは、一週間前から14日がカウントダウンされる設定にしておいた。
そして、愛用の手帳には、よく目立つようにしっかりと赤い文字で書き込んだ。
同じ失敗を何度も繰り返すのは、プライドが許さない。

勿論、年度末のこの時期に定時で上がるために、仕事は前倒しで頑張った。
準備は完璧だ。
今日は金曜日。
無駄に思えるくらいに、気合が入っていた。


「ただいま」
開いたドアの向こうには、少し驚いた顔の手塚が立っていた。
「おかえり。今日は、早かったんだな」
この時期に7時前に帰宅するなんてことは、滅多にないことだ。
手塚が驚くのも無理はない。

「ちょっと寄りたいところがあったんで」
「そうか」
小さく呟いて、手塚はリビングに引き返す。
手塚は、あれこれと詮索をしない人間なので、こんなとき助かる。

「夕食の準備は、まだだよな?」
「ああ。こんなに早く帰ってくると思わなくて」
「今日は俺が作るつもりだったから、ちょうど良かったよ」
手に持っていたスーパーの袋を見せると、手塚は納得したように頷いた。

今日の俺は、自分でも惚れ惚れするくらい手際が良かった。
朝からしっかりと手順を考えていたのだから、それも当然かもしれない。
手早くシーフードのパスタと、ライスコロッケ、モッツァレラのサラダを作り、テーブルに運んだ。

「お前が早く帰ってくると、手の込んだ物が食べられていい」
食器を並べながら笑う手塚に、ワイングラスも出してもらった。
夕食の材料と一緒に、よく冷えた白ワインを買ってきてある。
実は、今日の夕食のテーマは「白」なのだ。

パスタは白ワインで味をつけ、コロッケも中身は白で、サラダも白いチーズを使っている。
そして、よく冷えた辛口の白ワインとくれば、いくら手塚だってこの意味に気づくだろう。
そう思ったのだが、軽く乾杯しても、手塚が気づく様子はなかった。
まさか、手塚は今日が何の日か、覚えてないのだろうか。

3月14日は、ホワイトデーだ。。
バレンタインの借りを、今日はどうしても返したかった。
だから、朝から精一杯頑張ったのだが、どうにも空回り気味だ。
まあ、相手が手塚だから、この展開がまるっきり予想外ということもない。
理由がどうあれ、手塚が喜んでさえくれれば、それでいい。
とりあえずは、美味しそうに食べているから、第一段階はクリアしたと思っていいだろう。
強引に自分を納得させながら、自分の作った固めのパスタを頬張った。



なぜかはわからなくても、料理に気合が込められていることは、手塚にも伝わったらしい。今日の夕食は、いつよりもゆっくりと時間をかけて楽しんだようだ。
全部食べ終わったときは、満足した顔を見せた。
でも、もう少しこの雰囲気を味わいたい気もする。

「ワイン、もう一本あるけど、開けようか?」
「いや、飲むなら温かいものがいい」
手塚は、普段から、冷たい飲み物を沢山は取らない。
「じゃあ、コーヒーでも淹れるよ」
「俺がやる。旨い食事の礼だ」

手塚の言葉に素直に甘え、俺の方は、後片付けに取り掛かる。
何も言わなくても、俺が片付け終わるタイミングを見計らっていた。
後始末をすべて終わらせたところで、熱い紅茶をソファの方へと運んでくれた。
並んでソファに座り、淹れたてのお茶を味わう。
柔らかく落ち着いた香りは、手塚にふさわしいと思う。

「手塚、紅茶を淹れるの上手くなったな」
「だといいがな」
手塚は、自分で淹れた紅茶を一口含み、静かな笑みを浮かべた。
「前よりずっと手際が良くなったし、味も、なんだか深くなってきた気がするよ」
「気がするだけだろう」
謙虚なんだか、ただ素っ気無いだけなのかはわからないけれど、手塚のこういう物言いが、すごく好きだ。

寛いだ表情で紅茶を楽しむ手塚の横顔を見て、俺は予定通りに進んでいることに満足した。
ここまでのところ、ほぼ完璧と言っていい。
現時点で、手塚が今日という日を忘れていても、特に問題はない。
重要なのは、これからだ。
俺は、手塚に何も言わず、静かに席を立った。

一度自分の部屋に引っ込み、目的のものを手にすると、またすぐソファに戻る。
手塚はちらりと視線だけを寄こし、すぐに顔を手元に向けた。
「手塚、これ」
「ん?」
再度顔を上げた手塚の前に、白い包装紙に包まれた箱を差し出した。

「バレンタインのお礼」
「あ」
やっぱり、手塚は今日が何の日か忘れていたらしい。
一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに元の澄ました表情に戻る。
でも、完全なポーカーフェイスを作ることには失敗したらしく、隠し切れなかった照れをごまかすように唇を噛んでいた。

この顔を見られただけで、今日一日の頑張りが報われたような気がした。
だが、こんなことで満足していては駄目だ。
なにがどう駄目なのかは、自分でもよくわからないが。

「そうか。今日は14日だったな」
「うん」
手塚はカップを置いて、俺からのプレゼントを両手で受け取る。
手が空になった俺は、ソファに据わりなおして、カップを持ち上げた。

「開けていいか」
「ぜひ」
手塚は、テーブルの上のカップを遠くに置きなおしてから、慎重な仕草で包装紙を剥がした。
贈り物をしたことは何度もあるが、手塚が包装紙をびりびり破るところを、俺は一度も見たことがない。
剥がした包装紙をきちんと畳み、それから静かに厚みの少ない箱の蓋を開けた。

箱の中身を、じっと見つめてから、手塚は静かに口を開いた。
「パジャマか?」
「うん」
「シルク?」
「うん」

俺が贈ったものは、白いシルクのパジャマだった。
バレンタインにチョコレート色のネクタイをもらった時から、お礼は白いパジャマにしようと決めていた。
手塚に滑らかな肌を包む、とびきり上質な生地の。

派手なものは好まない手塚のために光沢の少ないものを選んだ。
だが肌触りには、とことん拘った。
ふわりと軽く、それでいてしっとりとした感触は、きっと手塚の気に入るはずだ。

手塚は、箱の中から上衣だけを取り出し、膝の上に乗せた。
「軽いんだな。それに、すごく柔らかい」
指先が、絹の上をゆっくりと滑る。

「夏は涼しく、冬は暖かく感じるらしいよ」
「着心地も良さそうだ」
手塚は両手でパジャマを持ち上げ、全体を確かめているようだ。
「一応、セミオーダーだから、サイズはぴったりだと思う」
「ありがとう。大切に着させてもらう」
そういって、手塚はパジャマを丁寧に畳み始めた。

「あれ?箱にしまっちゃうのか?」
「ああ、汚すといけないから」
「着ないのか」
「今日はな」
手塚は、パジャマや下着など、直接肌に触れるものは、一度洗ってからじゃないと身に着けない。
多分、これも洗濯してから着たいのだろう。

「洗ってから着たいのは、よくわかるんだけどね」
手塚は、何だ?という顔で、俺を見ている。
「これ、オーダーだから店頭に並んでいたものじゃないんだ」
「そうか。で?」
別に、手塚は意地悪を言っているわけではなく、俺が何を言いたいのかわからないんだろう。

「だから、あの、ちょっと言いにくいんだけど」
「とにかく、言ってみろ」
「今日、これ着てくれないか」
「どうしてだ」
そう聞きたいのは、当然だと思う。
だが、贈ったものが身につけるものだった場合、それを着たところが見たいというのも、また当然のことではないのか。

「着たところが見たいんだよ」
「それだけか?」
手塚の言葉に、ぎくりとした。
普段は、あっさり聞き流すくせに、どうしてこんなときだけ、鋭いのか。
切れ長の目は、納得のいく答えを聞くまでは、絶対逸らされる事はないだろう。

「……脱がせたいんだよね」
「なに?」
「や、だからね。そのパジャマを、俺が自分の手で脱がせたいんだ」
「お前に脱がせるために、俺に着ろということか?」
「…そうです」
手塚の眼鏡のフレームが、絶妙なタイミングできらりと光った。
ちょっと、怖い。
怖いので、必死に訴えた。

「そのパジャマを見つけたときから、ずっと脱がせたいって思ってたんだ」
白い手塚の肌に、柔らかくまとわりつくシルク。
細い肩から滑り落とし、ゆっくり奪い去る。
その瞬間を想像して、どれだけぞくぞくしたか。

「着せるのでは、駄目なのか」
「駄目!」
つい語尾に力が入ってしまった。
はっと我に返ると、手塚は目を細めて、呆れたように俺を見ていた。

「俺にはよくわからないが、そんなに重要なことなのか」
「俺には、ものすごく重要だよ」
今夜、やっと実行できると、朝からどれほど楽しみにしていたことか。
俺の頑張り様を、手塚の前でもう一度再現したいくらいだ。

手塚は、ふうっと大きく息を吐いて、手にしたままだったパジャマを箱に戻した。
「そういえば、お前にはチョコレートも貰っていたな」
「ん?ああ、一応ね」
何のことかと思ったが、コンビニで買ったパラソル型のチョコのことを言っているのだろう。

「あれのお礼もしないといけないな」
「そんなの気にしなくていいよ」
あれは、洒落みたいなもので、お礼をしてもらうほどじゃない。
「いや、そういうわけにはいかない。ちょっと待っている」
手塚は急に立ち上がって、すたすたと自分の部屋に歩いていく。
俺は半ば唖然として、その後姿を口を開けて見送っていた。

パジャマの件は、一体どうなったのだろう。
どきどきして待っている俺の前に、手塚はすぐに戻ってきた。
左手に何か袋状のものを持っているようだ。
それを俺の前に突き出して、手塚はにっこりと笑った。

「チョコレートのお礼だ。受け取れ」
逆らうことを許さない口調に押され、おずおずと受け取る。
渡されたそれは、ジッパーつきの、のど飴のパックだった。
だが、それはただの、のど飴ではない。
商品名に、有名な咳止め薬の名前が含まれているものだ。
実は、俺は薬くさい味が、ものすごく苦手なのだ。

「今日は、少し喉の調子が悪くてな。昼のうちに買ったんだが、よく効くな、これは。おかげで今は、すっかり良くなった」
手塚は元の場所に、足を組んで座った。
「ああ、そうなんだ」
でも、俺は喉は痛くないよ。
先回りして、そう答えようかと思ったが、笑ったままの手塚が恐ろしくて、それもできない。

「残りは、お前にやる」
「ありがとう」
予想通りの展開だ。
笑っては見たものの、間違いなく顔は引きつっているだろう。

「それをちゃんと舐めたら、今夜このパジャマを着てもいい」
「…まさか、これ全部なんて言わないよな」
袋の上から触ってみても、残っている数は2つや3つではないことは、確実だ。
「そんなことは言わない。今日のところは、ひとつで許してやる」
優しいだろうとでも言いたいのか、手塚はやけに艶かしい角度に首を傾けている。

「そのかわり、絶対、噛み砕いたりするな。最後までちゃんと舐めろよ」
勿論、手塚は俺がこの飴を苦手なことは、良く知っている。
知っていればこその命令だ。
「本当に着てくれるんだな?」
「本当だ。嘘は言わない」

覚悟を決めて、袋の口を開くと、あの独特の薬くさい匂いが漂ってきた。
心なしか、記憶よりも一粒が大きく見えた。
味を思い出し、怯んでいると、楽しそうな声がした。
「お前、舐めるのは得意だろう?」

ええ、その通りです。
あとから、思い切り舐め倒してやるから、覚えていろよ。

思い切って袋に突っ込んだ俺の指先は、飴の白い粉まみれになっていた。
なぜか、それが妙に悲しかった。

2008.03.20

夢のないWD話だなあ…。でも、なんだかんだで、このあと情熱的な夜を過ごすと思う。

(※3/22 分割していたのを一本にまとめ直しました)