Hot Cake Mix

「ケーキ作りに挑戦してみようかと思うんだ」
唐突に、主語のない会話を始めるのは、乾の癖みたいなものだ。
昔は何が言いたいのか、さっぱり掴めなかったが、今はもう慣れてしまった。
12月を半分過ぎた、この時期だ。
ケーキと言えば、クリスマスケーキのことだろうし、「思う」と言うからには挑戦するのは乾だろう。

だが、ここで「そうか」と言ってしまうと、会話は終了だ。
いかにも、何か言いたそうにしている乾につきあって、一応確認をとってみる。
「今年は、クリスマスケーキを、お前が自分で作るということか?」
「うん。そうそう。そういうこと」
乾はチーズとハムの挟まったホットサンドを手に、にこやかに笑った。

手塚が覚えている限り、乾がケーキの類を作ったことは、一度もないはずだ。
どうしていきなり手作りケーキに挑戦しようと考えたのかは、手塚にはわからない。
わざわざ、休日の朝食時に宣言するくらい、気合が入っているのだろうか。
クリスマスイブまでは、あと10日ほどある。
その間に、試作をするつもりなのかもしれない。
乾の場合は、実験と表現する方が近いけれど。

「どんなケーキを作るんだ?」
「うん。今、それを聞こうと思ったんだ」
乾は唇の端についたチーズを、器用に舐めとってから微笑んだ。
「手塚は、どんなケーキが食べたい?」

さて、困った。
この質問に即答できるほど、ケーキには詳しくないし、好物でもない。
出来れば生クリームはいらないし、甘さは控えめなほうがいい。
正直な話、一口あれば十分だが、そんなことを言ってしまっていいものか。
手塚にとっては、相当に難しい質問だ。

「ケーキ、か」
しばらく腕組みをして考えているうちに、あるものがふと頭に浮かんだ。
ケーキと名のつく物の中で、多分これが一番なじみがある。
もう、何年も食べていない。
でも、子供の頃大好きだった、懐かしいものが。

「ホットケーキがいい」
「ホットケーキ?ホットケーキってあの、二段重ねになっていて上にバターが乗っかっているやつのことか?」
乾は少し驚いた様子で、手塚の顔を見ていた。

「そうだ。昔からある、あれだ」
「懐かしいな。子供の頃、良く食べたよ」
「俺もそうだ。何年も食べていないがな」
最後に食べたのは、いつだったか覚えてないくらい昔のことだ。

「そうか。ホットケーキね」
乾は、妙に真剣な顔をして腕組みをする。
「自分で作ったことは一度もないが、あれを完璧に仕上げるのは、結構難しそうだな」
「別に完璧じゃなくてもいいんじゃないか」
「いや、駄目だ。クリスマスケーキのかわりに作るんだ。ホットケーキの見本みたいな、完全なものにしないと」

市販のホットケーキミックスを使うべきか、自分で粉を配合するか。
既にそんな具体的なことを、真剣な顔でぶつぶつ呟くのは、完全に自分の世界に没頭しているからか。
「ホットケーキか。案外奥が深そうだな」
どうやら、手塚の思いつきは、乾の探究心に火をつけてしまったらしい。
すっかり食事を忘れて考え込んでいるので、「とりあえず食事をすませてからにしろ」と言ってみたが、乾の耳に届いたのかどうかはわからなかった。

その後、ホットケーキに関する話が乾から出ることはなかった。
忘れてしまったのかとも思ったが、あの人一倍記憶力のいい人間に限って、それはないだろう。
きっと、手塚の知らないところで、色々とデータを収集しているはずだ。
ただ、一体どこで試作するのかは見当がつかなかった。

今年のクリスマスイブは振り替え休日となった。
休みの日は遅くまで寝ている乾が、今日は普段と変わらない時間に起きてきた。
乾が、やる気になっている証拠だ。
午前中のうちにケーキの材料を買出しに行き、大きな荷物を抱え満足そうな顔で帰ってきた。
夕食は、チキンとピザを予約してあるからサラダくらいしか作らなくていい。
それはきっとホットケーキ作りに集中したいからなのだろう。

午後の三時くらいになって、自分の部屋に篭っていた乾は、黒いエプロン手に持って出てきた。
薄手のセーターの袖は肘の辺りまで上げてある。
「そろそろ、ホットケーキを焼こうと思うんだけど、今食べられそう?」
「ああ、大丈夫だ」
手塚は広げていた新聞を畳んで、ソファから立ち上がった。

「何か手伝うことがあるか?」
「こっちはいいから、皿を出しておいてくれるか」
「わかった。紅茶でよければ、俺が用意するが」
「ああ、いいね。じゃあ、頼む」

乾はてきぱきと冷蔵庫から卵や牛乳を取り出し、キッチンへと運ぶ。
大きな手が卵を割ったり、フライパンを握ったりするところを見るのは好きだ。
だが、今日は出来上がりを楽しみにしたいから、覗き見るのはやめにした。
乾に頼まれたことを遂行するのが先だ。

テーブルの上に、乾が選んだティーセットを並べる。
そして、同じメーカーの白い皿と、銀色のナイフとフォークもセットした。
紅茶の葉は、何にしようか迷ったが、今日はディンブラを選んだ。
香りが良く癖のない味が、ホットケーキの素朴な味に合いそうな気がしたのだ。

乾が台所を占領しているから、湯を沸かすのに電気ケトルを使うことにした。
スイッチを入れれば、1分かそこらで沸くから、乾に声をかけてもらえばすぐに紅茶は淹れられる。
準備をしているうちに、キッチンからは甘い香りが漂ってきた。
一体どんなケーキが焼けるのか。
自分が、久しぶりのホットケーキをとても楽しみにしていることに気がついて、手塚は乾に背を向けたまま、小さく笑っていた。

「お待たせ」
振り返った乾の手には、手塚が用意した真っ白な皿がある。
そこには焼きたてのホットケーキが二枚重なって乗っていた。
注意深くテーブルの上に置かれた皿を、手塚はじっくりと見てみる。
焼きたてのそれは、パッケージの写真のように、全体にふっくらと厚みがあり、こんがりとした焼き色は均一だ。

乾の作ったホットケーキは、見た目は完璧に思える。
だが、味はどうだろう。
「仕上げ」
乾が四角く切ったバターを乗せると、ケーキの熱ですぐに溶けだし流れていく。
ふわっと香ばしい匂いが広がり、食欲をそそられる。

「好きな方をかけてくれ」
乾はメイプルシロップの縦長の瓶と、蜂蜜の入った背の低い瓶を二つ並べてテーブルに置いた。
「バターが溶けきらないうちに、早く食べよう」
手塚はメイプルシロップを、乾は蜂蜜を選び、ケーキの表面に細くたらす。
恐る恐るナイフを入れると、予想以上の弾力があった。
まずは一口。

バターと卵の風味が、口の中全体に広がった。
「旨い」
素直に、この言葉が出てきた。
これは、お世辞じゃない。
本当に美味しいのだ。

生地はごく控えめな甘さで、そこにメイプルシロップのこくのある甘みとバターの塩気が混じり、味に奥行きが出る。
表面はこんがりと、中身はふんわりとした感触も絶妙だ。
ホットケーキとは、こんなに美味しいものだったのか。

「本当に、市販のホットケーキミックスなのか?」
手塚の記憶にある味は、もっと素朴で単純なものだった。
「そうだよ。定番中の定番。ホットケーキといえばこれってのを買った」
ただし、と付け加えて、乾はにやりと微笑んだ。
「卵は6個入り約500円の自然卵で、牛乳はノンホモの低温殺菌牛乳。バターは幻と呼ばれたものだよ」

呆れた懲りようだ。
だが、確かにこれは旨い。
いい材料を使っただけのことはあると、認めざるを得ない。
しかも焼き加減が、とてもいい。
こっちの方は、純粋に乾の力ではないのか。

「焼き方も上手い。一体、いつ練習したんだ?」
「してないよ。ぶっつけ本番。コツは事前に調べておいたけどね」
「すごいな」
「いや、殆ど偶然だ」
さすがに元データマン。
シミュレーションだけで、ここまで作れるならたいしたものだ。

「ホットケーキは、こんなに美味しい物だったんだな」
「作った本人でも、そう思う」
フォークを運ぶスピードを見ていると、本当に美味しいと感じているようだ。

「これなら、また食べたくなりそうだ」
「ここまで上等な材料を使わなくてもいいなら、いつでも作るよ」
今日のはクリスマスの特別メニューだから。
乾はそう言って、目を細めて笑った。

二人が向かい合うテーブルの真ん中では、ガラス細工の小さなツリーが柔らかい光を映していた。
ツリーは色のない透明なガラスでできていて、小さなオーナメントが3つぶら下がっている。
とても繊細な作りで、触るのが怖いくらいだ。

このツリーは、朝のうちに乾がクリスマスプレゼントだと言って、手塚にくれたものだ。
「小さいけど、ツリーくらいあった方がいいかと思って」
乾は照れくさそうな笑顔を浮かべていたが、手塚は別の理由で笑ってしまった。
一度自分の部屋に戻って、リボンのかかった小箱を持ってきた。

「これは、俺からのプレゼントだ」
手のひらに乗るくらいの箱を乾に渡すと、すぐその場で開いた。
「かわいいな」
乾は、手塚からの贈り物を大きな手に乗せ、くすりと笑った。

手塚が贈ったのは、10センチほどのスノードームだった。
丸い透明なガラスの中には、小さな天使が羽ばたいている。
中の水を静かに揺らすと、きらきらと銀色のラメが舞う。

手塚も子供の頃、両親から雪だるまのスノードームを貰ったことがある。
それを思い出したとき、乾へのプレゼントが決まった。
今日のケーキが子供の頃によく食べたホットケーキなのだから、とことん童心に帰りたくなったのだ。
きっと、乾も同じようなことを思ったのだろう。
贈り合ったガラスのツリーとスノードームは、最初から対でできているかのように、よく似合っていた。

「クリスマスのケーキに相応しい味になったかな?」
エプロンを外し、セーターの袖を直した乾には、白いカップがよく映えていた。
「ああ。お前の言う、完璧な仕上がりだ」
手塚の言葉に、乾はくすくすと笑い、紅茶のお替りを要求した。
旨いケーキを作ってくれたお礼代わりに、二杯目の紅茶をすぐに用意する。

寒いこの季節に相応しいのは、豪華なデコレーションケーキなんかじゃなく、ふんわりと甘く暖かいホットケーキなのかもしれない。
一枚目はあっというまに平らげてしまったので、二枚目はじっくりと味わおう。
まだ温かいケーキを一口分、丁寧に切り取った。
断面の卵色は、とても幸せそうな色に見えた。

2007.12.24

きっとそのうち、手塚は「俺にも焼かせろ」と言い出します。そして、ものすごく真剣な顔でフライパンを握るんだ。そんで、ホットケーキの表面がぷくぷく言い出したら、ちらっと乾を見て「もう、いいか?」と眼で訊ねるんだ。乾も真剣な顔で「よし」と頷くんだな。そして、気合を入れてひっくり返す。上手くいったら、乾が拍手してくれます。そんなバカップルが愛しい。

牛乳は、いぬい牛乳で、バターは「カルピ○バター」を使っているという設定。カ○ピスバター、高いけど美味しいですよね。でも、それを使ったら劇的に美味しくなるかどうかは知らん。
ホットケーキネタはいつか絶対書こうと取っておいたんです。やっと書けて嬉しい。