風邪引き未満
乾の前で、くしゃみをするのは、注意が必要だ。他に、なんの症状がなくても風邪引きにされてしまうから。
さほど大きくもない、くしゃみを二度続けてした。
たったそれだけなのに、乾は読みかけの新聞をたたみ、すぐに手塚のそばに飛んできた。
「風邪か?熱は?喉、腫れてない?」
ついさっき、普通に夕食を食べ終えて、普通にソファでくつろいでいるのを見ていなかったのか、この男は。
「熱もないし、喉も痛くない。ちょっとくしゃみをしただけだ」
「いや、急に熱出ることもあるし、油断しちゃ駄目だよ。待って、今上に着るものを持ってくる」
いらない、と声をかける暇もなかった。
乾は、すばやくとなりの部屋から、ニットのカーディガンを持ってきた。
「はい、これ着て」
ここで、着ないなどと言うと、ますます大げさに騒ぎ出すのは目に見えていたので、おとなしく袖を通した。
わざとらしく大きなため息をつき、ささやかな反抗を試みたが、乾はまったく気にしていないだろう。
そんなことより、今着たばかりのカーディガンの方が気にかかっているようだ。
「暖かくなったかな。着心地はどう?」
「暖かいし、着心地もいい」
そう答えてやると、乾は満足そうに頷いた。
なぜなら、このカーディガンは、乾からのクリスマスプレゼントだからだ。
二度目の大きなため息も、乾の耳には届かないようだ。
一緒に暮らし始めたころ、今と同じような状況になる度に、乾はこんなに心配性だったのかと驚いたものだ。
だが、何度も繰り返すうちに、心配とは少し違うことがわかってきた。
乾は、ものすごい構いたがりで、世話焼きなのだ。
手塚が風邪を引いたり、少し体調を崩したりすると、堂々と世話を焼けるので楽しいらしい。
重い風邪や、本当に具合が悪いときには、むしろ乾は冷静な対応をして大人しくなる。
そういうときは、本気で心配しているのだ。
大丈夫そうだとわかっているときだけ、鬱陶しいほどの世話を焼きたがる。
これはもう、乾の趣味といっていいのだと思う。
気を使われるのはあまり得意じゃないが、乾の場合は別だ。
好き勝手にさせておいた方が、かえって面倒が少ない。
だから、今では逆らわないことにしている。
新しいカーディガンを着て、腰から下には、ふわふわしたひざ掛けをかけた手塚を見て、乾は嬉しそうに笑っていた。
手塚の世話を焼けて、よほど嬉しいのだろう。
少しの間、手塚の隣に座っていたが、ふと何か思いついたように立ち上がった。
「なにか、暖かい飲み物でも作ろうかな」
──まだ満足していなかったのか。
「何がいい?」
「ココア以外ならなんでもいい」
今は、甘ったるい飲み物を欲しくない気分だったので、正直に言った。
乾は、遠まわしに言い方よりも、はっきりとした答えを好む。
「了解。すぐ作るから、暖かくして待っていてくれ」
すでに十分すぎるほど暖かいのだが、まあいい。
変な冒険をしない限り、今の乾が作るものは美味しいから、素直に待つことにした。
10分くらいしたら、ふわっといい香りがしてきた。
なにか覚えのある香りだが、すぐには思い出せない。
「はい。温まるよ」
差し出された白いマグカップを両手で受け取り、中をのぞく。
そこには湯気の立つ赤い液体が、注がれていた。
「グリューか?」
手塚の問いに、乾は笑顔で答えた。
「それの手を抜いたやつ、ってところかな。かっこつけて言うと、ホットワインティー」
グリューワインは、ドイツで何度か飲んだことがある。
さっき思い出しかけたのは、そのときの記憶だった。
最後に飲んだのは何年も前だが、、あの香りをまだ覚えていたのだ。
「本当は、ガラスの器があればいいんだけどね。マグカップで我慢してくれ」
確かに、綺麗な赤い色をしているから、透明なカップに入れたらきっと映えただろう。
でも、手塚には、使い慣れた白い大きなマグカップで十分だ。
受け取ったカップから、甘酸っぱい香りが立ち上る。
「いただきます」
「熱いから、気をつけて」
顔を近づけると、確かに湯気まで熱い。
だが、それくらい熱い方が美味しいだろう。
火傷しないように気をつけながら、一口飲んでみた。
紅茶とワインは半々くらいだろうか。
どちらの風味も、ちゃんと残っている。
柔らかい甘みは、蜂蜜のような気がする。
それだけではなく、なにかフルーティーな香りもした。
手塚の知るグリューワインとは少し違う、もっと優しくてどこか懐かしい感じのする味だった。
「いい味だな。何を入れた?」
「蜂蜜とマーマレード」
フルーティーだと感じたのは、そのせいか。
手塚は軽く頷き、まだ熱いカップの中身を、ゆっくりと味わう。
まだアルコール分が残っているからだろうか。
身体の内側から、じわりと温もりが広がっていく。
確かに、これは風邪の引き始めには、効果がありそうだ。
ドライフルーツや香辛料が入った本格的なグリューワインも美味しいものだ。
寒い冬の夜に飲むには、ぴったりだと思う。
だが、その味は、異国の飲み物だと感じさせる。
乾の作ったホットワインティーの方が、自分には合っているようだ。
馴染みのある材料を使っているからか。
それとも、乾が手塚の好みや体調を慮って作ってくれたからか。
大きなマグカップに注がれたホットワインティーは、なかなか冷めない。
時間をかけて味わう手塚を見て、隣に座る乾は、切れ長の目を細めた。
自分が贈ったカーディガンを着て、自分が作った熱い飲み物を味わっている姿を見るのが、そんなに楽しいのだろうか。
この男なら、きっと本当に楽しいのだ。
「飲み終わったら、身体が温まっているうちに、すぐに寝たほうがいい」
「嫌だ」
「え?」
そういう返事を想定しないなかったのか、乾は本気で驚いたようだ。
珍しく、目を丸くしている。
「なんで嫌なんだ?」
乾に起こる様子はなく、純粋に疑問に思ったらしい。
そんな乾の反応が、手塚には楽しい。
「すぐにベッドに入るのはいい。でも寝るのは嫌だ」
「どういう意味だ?」
「考えてみろ」
乾は、5秒ほど黙り込んだあと、ふっと口元を緩めた。
昔から、頭の回転は速い男だ。
「なるほどね。でもいいのか?」
「汗をかけば治ると、よく言うだろう」
「意味が違うと思うけどな」
「やるのかやらないのか」
「やります。いや、やらせていただきます」
慌てたふりをしているけれど、本気ではないのはわかっている。
ついさっき、まん丸になっていた目が、今はとても楽しそうだ。
「やりたくなった理由を聞いていい?」
「必要か?」
乾は、それには答えずに、ゆっくりと笑っただけだった。
それが気に入ったので、答えてやることにした。
「酔った勢いだ」
「アルコール分を飛ばしたワインで?」
「そういうこともある」
「そうか」
風邪を口実に甘やかす男がいるなら、それに便乗するのもありだろう。
冷めないうちに飲み干して、もっと熱くなることをしよう。
風邪でも風邪でなくても、ふたりで汗を流すのは気持ちがいいのだから。
火傷しそうに熱いワインと紅茶を味わえるなら、この男の前でくしゃみをするのも悪くない。
2011.02.09
手塚は、「俺を甘やかすお前が悪い」って、素で言いそうですよ。