Humming
開け放した窓から、気持ちのいい風が吹き込んでいる。空色というより、水色と呼びたい青い空は、もう夏のものではない。
中学生の頃には、暑い季節が終わるのを惜しんだものが、そんな感傷は、とっくの昔になくなった。
むしろ湿気が抜けて過ごしやすい時期になったことを、ほっとしているくらいだ。
年を重ねるというのは、きっとそういうことなんだろう。
今日は土曜日から続いた三連休の最後の日。
金曜の夜から昨日まで、手塚と短い旅行を楽しんだ。
今朝は何も予定がなかったので、二人ともゆっくり目に起きた。
遅い朝食をとってから、それぞれ手分けして掃除と洗濯に取り掛かることにした。
こう天気がいいと、普段なら面倒なことも気持ちよく片付けられる。
俺が部屋中に掃除機をかける間に、手塚は洗濯機置き場とベランダを何度か往復していた。
数日留守にしていただけだが、洗う物が結構溜まっていたようだ。
急いで掃除を済ませ、洗濯の方を手伝おうとベランダに近づいたとき、足が止まった。
透明度の高い青空を背景に、ぱんと音を立ててシーツを広げる後姿が見える。
きびきびとした動きは、見てるだけの俺まで清々しい気分になってくる。
だが、それは確かに気持ちのいい眺めであるか、珍しいものじゃない。
俺の足を止めたのは、微かに聞こえてきた歌声だった。
歌っているのは、手塚なのか。
確かめたくて、その場で耳を澄ませた。
小さいけれど、聞こえてくるのは、やはり手塚の声だった。
歌詞はなく、ただメロディーだけが聞こえてくる。
一体、何の曲だろう。
俺は手塚の死角になる位置に移動し、気配を消すように、じっと息を潜めた。
ひたすら静かに、耳を澄ませ、手塚の声を追いかける。
そうしているうちに、手塚が口ずさんでいるメロディーが何かわかった。
最近ではあまり聴く機会のなくなった、昔の童謡だ。
少し意外な感じがしたが、手塚なら不思議はない気もする。
どんな曲が手塚に相応しいのか。
それを考えてみて、やっと気づいた。
俺は、今まで手塚の歌声を聴いた覚えがないことに。
中学時代は、ずっとクラスが違ったから、音楽の授業を一緒に受けたこともない。
テニス部時代の友人達と、カラオケに行ったことはあるが、手塚は苦手だからと参加しなかった。
もし、俺が聞いたことがあるとするなら、校歌くらいのものか。
それも、実際には聞いたことはないだろう。
あるなら、絶対に記憶に残っているはずだ。
確かに今日は、とても天気がよくて気持ちのいい日だ。
青い空に、洗い立ての白いシーツを揺らす、爽やかな風。
つい歌のひとつくらい出てきても、不思議はない。
でも、それが学生時代は堅物で通っていた、元プロのテニスプレーヤーの手塚国光で、歌っているのが童謡だというのは、ちょっと愉快だ。
二人で暮らしてから、何年も経つのに、これが初めて聞く手塚の歌声なのだ。
次の機会があるかどうかも、わからない。
少しでも長く聞いていたくて、俺はずっとその場に立ち尽くしていた。
手塚は俺の存在には、まったく気がついている様子はない。
洗濯物を全部干し終えると、空になったステンレスの籠を持って、手塚が振り向いた。
同時にぴたりと歌が止んだ。
手塚は、怪訝そうな表情で、軽く小首をかしげた。
「なにを突っ立ってるんだ」
「え?いや、なんでもない。けど」
「手が空いたんなら、手伝ってくれ」
「ああ、うん。わかった」
予想外の反応だった。
ちょっと拍子抜けだったと言ってもいい。
手塚なら、鼻歌を聴かれたと気づくと、きっと照れるだろうと思ったのだ。
だが、すたすたと俺の前を横切っていく手塚に、そんな様子は伺えない。
後ろをついていきながら、今度は俺の方が首を傾げていた。
ひょっとすると、手塚は自分が歌っていた自覚がないのだろうか。
あの鼻歌は、つい無意識に出てしまったもので、手塚自身は気づいていないのかもしれない。
きっと、そうなんだ。
そう考えると、今の手塚の態度は、すごく納得がいく。
同時に、自然と顔がほころんできてしまった。
うっかり童謡を口ずさむほど機嫌がよくなる時間を、俺と過ごしてくれてるってことが、すごく嬉しい。
しかもそれが洗濯物を干しているときだなんて、誰が想像できたろう。
本人だって、予想してなかったに違いない。
洗濯物をすべて片付けてから、俺は熱いコーヒーを入れた。
挽きたてのコーヒーの香りを楽しんでいる手塚に、俺はさりげなく聞いてみた。
「一度、カラオケにでも行ってみる?」
「カラオケ?いや、俺はいい」
すげない返事がすぐに返ってきた。
「どうして」
「歌は、苦手なんだ」
「童謡でもいいんだよ」
「なんの話だ?」
やっぱり、手塚の鼻歌は無自覚のことだったらしい。
きょとんとした表情で、俺を見ていた。
その顔は、中学生の頃よりも可愛く見える。
貴重な体験に、俺は心から感謝して、二杯目のコーヒーを淹れるために立ち上がった。
鼻歌日和ってものがあるとしたら、それは今日のような日のことを言うのだろう。
2008.09.18
きっと使った柔軟剤も「ハミ○グ」。