寝言

ごく稀なことだけれど、眠っている最中に、自分の出した声で目が覚めてしまうときがある。
要するに、自分の寝言に起こされるわけだ。
数年に一度くらいの頻度だったから、それで困ったことはないし、あまり気にしていなかった。
だが、今回は少し困ったタイミングで、それが起きてしまった。

「くにみつ」

そのとき、自分が何を言ったのか、はっきりと聞こえた。
反射的に目を開いたが、視界は暗い。
と言っても、完全な暗闇ではなく、少し明るくなりつつある感じだった。
まだ起きる時間ではないのは、時計を見なくてもわかる。
目が覚めたばかりだが、意識はやたらとクリアだった。
だが、そんなことは、どうでもいい。
目覚まし時計が鳴る前に、目が覚めてしまった理由が問題だった。

――今、俺はなんて言った?
「国光」と口に出さなかったか。

疑うまでもない。
耳にはまだ、さっきの自分の声が、しっかりとこびりついているのだから。

いきなり目が覚めたせいなのか、見ていた夢の内容は、綺麗に忘れてしまった。
でも、おそらくは手塚の夢を見ていたのだろう。
目覚める瞬間まで、とても気持ちよく眠っていた気がする。
名前を呼ぶくらいだ。
きっと、俺にとっては、最高の夢だったに違いない。

決して小さいとは、言えない声だったと思う。
もしかししたらと不安になり、そっと隣で眠っている手塚の様子を伺ってみる。
手塚は、こちらに背を向けて眠っていた。
水色のパジャマが、今はもっと濃い青に見える。
毛布から少しはみ出したその肩は、ほとんど動かず、耳を澄ますと規則正しい息遣いが聞こえてきた。
大丈夫。
目は覚ましていない。

目が覚めたときに手塚がこちらに背中を向けていたら、結構寂しかったりするのだが、今日に限ってはありがたい。
変な時間に起こしては申し訳ないし、なによりもあんな寝言を聞かれるのは恥ずかしい。
俺は仰向けになり、ふうっと息を吐いた。
それにしても、どうしてあんなことを口にしたのか。
夢に、どうしてなんて言ってもしょうがないのだけれど。

現実に、手塚に向かって名前を呼び捨てにしたことなんて、ふざけたときくらいしかない。
それだって、ほんの数回だ。
手塚と呼ぶのは好きだし、俺たちの場合は姓で呼び合うのが、自然だと感じていた。
でも、心のどこかでは、名前を呼んでみたいと思っていたのだろうか。
そういう願望が、ああいう形で表に出てきたのか。

いや、きっと考えすぎだ。
なんでもかんでも、理由をこじつけるのは、俺の悪い癖だ。
寝言は寝言。
たまたま、そんな夢を見たのだろう。
そう結論付けて、俺はしっかりと目を閉じ直し、もう一度眠りに落ちた。

次に目が覚めたとき、手塚はもうベッドの上にはいなかった。
手塚の方が早起きなので、これはいつものことだ。
枕元では、目覚まし時計が軽い電子音を鳴らしている。
それを片手で止めて身体を起こした。

いつもと変わらない、ごく普通の朝だった。
違っているのは自分だ。
目が覚めた瞬間に、夜中の出来事を思い出してしまっていた。
多分、あれは手塚には聞かれていないと思う。
でも、名前を呼んでしまったことそのものが、どうにも照れくさい。

リビングに行けば、当たり前だが手塚がいる。
顔を合わせたら、もっと恥ずかしくなりそうだ。
だからと言って、ここでぐずぐずしているわけにもいかない。
覚悟を決め、ベッドから抜け出した。
おそらく、俺は、ことを面倒くさく考え過ぎなのだ。
変に意識しないように、自分に言い聞かせながら、リビングへと向かった。


「おはよう」
俺が声をかけるのと、手塚が振り向くのが、ほぼ同時だった。
両手には、コーヒーカップを持っている。
「おはよう。今日はちょっと遅かったな」
手塚は、それだけ言うと、すぐに前に向き直り、テーブルの上に二つのカップを載せた。

「そうかな」
ベッドルームで、ぐずぐずしていた時間ということか。
「5分後に起こしに行こうかと考えていたところだ」
「ちょっとぼんやりしてたんだ。春だから眠いのかな」
「朝食のタイミングには、ぴったりだったな。冷めないうちに食べろ」
5分の遅れなど、手塚にはどうでもいいことなのか、それ以上の追求はなかった。
手塚のこういう大雑把さは、場合によっては、とてもありがたい。

今日の朝食は、野菜サラダと茸入りのオムレツに、軽く焼いたベーグル。
そして熱いコーヒーという、とてもシンプルなメニューだった。
さすがにもう10代のような食欲はなく、朝はいつもこの程度のボリュームだ。
もちろん、今朝は全部手塚が用意してくれた。

一緒に暮らし始めたころの手塚は、あまり料理が得意ではなかったが、今ではお手本にしたいほど綺麗な形のオムレツを焼けるようになった。
今朝のメニューなら、俺が作るのと同じくらいの時間で出来ただろう。
実は、手塚は周囲が思っているよりも、ずっと器用でまめなのだ。
手塚にならい、いただきますと手を合わせてから、きれいな色のオムレツを口に運んだ。
卵はふわっとやわらかく、中はとろりと半熟で、理想的な仕上がりだった。

おかげで、今朝の食卓での話題は、卵料理のあれこれになった。
美味しい食事と楽しい会話。
なんて平和な朝だ。
やっぱり俺は、色々と面倒くさく考えすぎなのだと納得していたら、手塚がふと何かを思い出したな顔をした。

「そういえば、変な夢を見たな」
手塚のその一言に、ぎくりとした。
なんとなく嫌な予感がするのだが、とりあえず今は話をおとなしく聞いた方がいいだろう。

「今日の話か?」
「そうだ」
「どんな夢だったんだ」
「なぜか祖父と将棋を指していた」
「将棋?別に、変じゃないだろう」
変と言うから、もっと怪しげな夢かと想像していた。
孫が祖父と将棋を指すなんて、微笑ましいではないか。
そう手塚に告げると、ほんの少し眉を寄せて首を傾げた。

「滅多に祖父の夢を見ることはないんだ。それに、あまり祖父と将棋を指したこともないしな」
「そうなんだ」
「滅多に見ない祖父が出てきたから、ちょっと気になったんだ。まあ、しばらく顔を見てないせいかもしれないな」
手塚は自分の発言に、ちょっと照れたように笑った。
「近いうちに会いに行くかな」
「まあ夢はともかく、ご家族に顔を見せるのはいいんじゃないかな」
もしかしたら、俺の笑顔は引きつっていたかもしれない。
手塚がどうしてそんな夢を見たか、その原因に心当たりがあるからだ。

「手塚。ちょっと聞きたいんだけど、おじいさんからなんて呼ばれているんだ?」
「普通に名前で呼ばれているが」
「だよな」
「それがどうかしたか」
手塚は、不思議そうな顔で俺を見ている。
「いや、別に。ただ聞きたかっただけ」
俺はなんとか笑い返したが、きっと間抜けな表情だったろう。

今の手塚の言葉で確信した。
やっぱり俺の寝言は、手塚の耳に届いていたのだ。
くにみつと名前で呼ばれて、眠っている手塚が連想したのは、自分の祖父だったというわけだ。
おそらくそれで間違いない。

「……おじいさんか」
「ん?なんだ?」
フォークを手にしたまま、手塚は俺に向かって、少しだけ身を乗り出すようにした。
俺は軽く首を横に振って答えた。
「なんでもない」

俺が名前で呼んだことは、ほぼ無いのだから、こうなってしまっても仕方ないだろう。
でも、なにもおじいさんを思い出さなくてもいいじゃないか。
ちらりと手塚の表情を伺ってみたが、すでにもう普段通りのクールな顔に戻っていた。

「あんまりゆっくり食べていると、遅刻するぞ」
「ああ、そうだな」
俺の返事に力が無かったことを、多分手塚は気にも留めていない。
まあ、手塚だからな。
そう思ったら、ちょっと笑えてきた。

寝言を聞かれなかったことを幸運と思うべきか。
おじいさんに変換されたことを悲しむべきか。
朝の忙しいときに考えるには、少々めんどくさい内容だったので、俺は食事に専念することにした。

リビングの窓からは、たっぷりと明るい日差しが差し込んでいる。
そして目の前には美味しい食事と、一緒にそれを味わってくれる大切な人。
これが幸せじゃなくて、なんなんだ。
おじいさんに間違われても、十分お釣りがくる。

強引にポジティブ思考に持っていってみたが、やっぱりどこか引っかかる。
これからは、たまには名前で呼んでみようか。
とりあえずは、今夜のベッドの中あたりはどうだろう。

こっちの想像なら、そう無理をしなくても膨らんでいきそうだった。


2012.04.22(2012.04.27一部修正)

寝言に照れる乾を書きたかったんだけど、なぜおじいさんが出てきたのか、自分でもわからない。