リクライニングチェア
梅雨明けしてからこっち、厳しい暑さが続いている。ニュースでも、熱中症やら猛暑という言葉を聞かずに済む日が、ないほどだ。
今日は朝からどしゃ降りで、午後になってから急に雨が上がった。
それで空気が冷えたのか、久々に過ごしやすい気温になった。
窓を開くと、心地よい風が吹き込んでくる。
厚かった雲が少しずつ減っていき、今は水色の面積が増えてきた。
もう少ししたら、綺麗に晴れ上がりそうだ。
手塚は窓を全開にして、外の空気を、思い切り吸い込んだ。
いつもの重く湿った空気では、とてもじゃないがこんな真似はできない。
暑い夏は嫌いじゃないが、今年のように猛暑が続くのはさすがにきつい。
エアコンのつけっぱなしも、それはそれで身体に堪える。
連日の暑さで、多少夏バテ気味になっていた手塚には、今日の天気はありがたい。
この天気なら、億劫で後回しにしていた家事も、一気に片付けてしまえそうだ。
暑い中、買い物にでかけた乾が帰ってくる前に、部屋を綺麗にしておこう。
きちんと部屋を掃除をして、洗濯物も乾燥機ではなく、風に当て干す。
面倒なことを全部済ませたら、あとはゆっくりすればいい。
スタートは遅めだが、久しぶりに、気持ちのいい休日になりそうだ。
手塚は、もう一度大きく息を吸い込み、埃を洗い流したような青い空を見上げた。
手塚が掃除と洗濯を済ませ、一息つこうとしたとき、タイミングよく乾が帰ってきた。
ちょっとそこまでと言って出かけたはずが、三時間近く過ぎている。
乾には良くあることなので、今更驚きもしない。
つい遅くなったと口では言っているが、きっと最初からそのつもりだったのだろう。
沢山の荷物を抱えた乾は、にこにこと機嫌よく笑っていた。
「今日は久しぶりに過ごしやすいな」
買ってきた食糧を、乾は、てきぱきと冷蔵庫に収めていく。
特に几帳面なタイプではないのだが、空間を効率よく埋めるのが、パズルのようで楽しいらしい。
「そうだな。おかげで、部屋の片付けもはかどった」
「あ、洗濯もしてくれたんだ。ありがとう」
乾はベランダの方を向いて、目を細めた。
そこでは、洗い立ての洗濯物が風に揺れているはずだ。
「お礼に、コーヒーでも淹れようか」
「ああ。頼む」
「温かいのと、冷たいのどっちがいい?」
「そうだな。今日なら熱いのがいい」
「了解」
いつの頃からか、コーヒーを淹れるのは乾で、紅茶なら手塚という役割分担が出来上がった。
そして、淹れてもらう側がカップの用意をするというのも、暗黙のルールになっている。
わざわざ集めているわけでもないが、カップの数も結構増えてきた。
食器棚から、その日使うカップを選ぶのも、楽しいものだ。
手塚は、色違いの同じ形のマグカップを二つえらび、テーブルの上に置いた。
アイボリーに茶色の縁取りが入っているものが自分用で、その逆の配色になっているのが乾用だ。
マグカップの割には、大きすぎないところが気に入っていた。
間もなく、コーヒーのいい香りが部屋の中に広がりはじめた。
不思議なもので、紅茶は一日に一度味わえば満足するが、コーヒーは何度でも飲める気がする。
手塚にとっては、コーヒーの方がより身近なのかもしれない。
お気に入りのカップにたっぷり注がれたコーヒーを持って、愛用のソファに移動する。
乾も手塚の後を追うように、マグカップを持って隣に腰を下ろした。
夏は、ついつい冷たい飲み物を多く取ってしまうが、ゆっくりしたいときは熱い飲み物の方が、より落ち着く。
クーラーではなく、自然の風が吹き込む部屋で飲むコーヒーは、特に美味しいと思えた。
「最近、外でコーヒーを飲みたいと思わなくなったな」
半分、独り言のように呟くと、乾はふっと目を細めた。
「それは、俺のコーヒーが美味しいからってことかな?」
「まあ、そうだ」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
乾がどこまで本気で言っているのか、顔を見ただけでは判断が難しいときが多い。
でも、今のはきっと本心なのだろう。
それくらいは、なんとなくわかる。
夕食まで、特にすることもない休日の午後に、カップ一杯分のコーヒーを、時間をかけて飲む。
贅沢な過ごし方だと思うのは、長い間、勝ち負けを競う世界にいたせいだろうか。
引退して何年も経つが、まだあの頃の緊張感を忘れきっていないのかもしれない。
テニスをしていた時の記憶は、今でも鮮明だ。
だが、今のこの暮らしも、同じくらい大切でかけがえのないものだ。
同じ部屋に乾がいるときの空気が、たまらなく好きだ。
心地良い風を感じながら、美味しいコーヒーを味わっているうちに、なんだか眠くなってきた。
それだけリラックスしているということだろう。
手塚があくびを抑えようとしたのを、乾はすぐに気づいたようだ。
「眠そうだな」
「ああ、ちょっとな」
今更隠すこともないので、素直に認める。
「ここのところ、睡眠不足気味だったからな。少し眠ったら?俺の膝で良かったら貸すよ」
「え?ここでか」
「そう。ほら、おいで」
「いや、遠慮する」
「いいからいいから」
いいと言ってるのに、乾は勝手に手塚の肩に手を回し、身体を横倒しにしてしまった。
そして強引に自分の膝に、頭を乗せる。
それから、ゆっくりと手塚の髪を撫ではじめた。
枕にするにはちょっと高過ぎる気もするが、撫でる手の感触は気持ちがいい。
ちらりと視線だけを上に向けると、にっこりと笑う顔が目に入る。
その笑い方がやけに幸せそうで、手塚は、わざと大きくため息をついた。
「お前はいつになったら、俺を甘やかす癖が直るんだ?」
「直らないよ。これは俺の生きがいだからな」
「生きがい?」
大げさな言い回しに、つい笑ってしまう。
言った本人もやっぱり、笑顔を浮かべていた。
「そう。だから、手塚は黙って甘やかされていればいいんだ」
確かに、乾に甘えるのは好きだ。
本来は、人に自分を預けるのが苦手な手塚も、乾になら何もかも任せてしまいたくなる。
「お前に甘えていると、やりたくなる」
本人にそのつもりがなくても、乾の体温を間近に感じ、器用な手指に触れられていると、自然とそんな気になってしまう。
現に今も、心地良さの質が、少しずつ色気のあるものに変わりつつあった。
「なんだ。早く言ってくれればいいのに。喜んでつきあうよ」
髪を撫でていた手が、そのまま首筋に移動する。
指先だけが、すっと肌の上を滑り、シャツの襟元まで潜り込む。
鎖骨をたどり、今度は喉を撫で上げる。
触れているのは、きっと中指一本だけだ。
くすぐったくて、気持ちがいい。
何度か、勝手に肩が揺れてしまった。
もっとも、抑えるつもりもなかったが。
「気持ちがいい?」
「ああ」
既に、やりたいと口にしているから、気楽に答えた。
こう言えば、乾が次にどうするかもわかっている。
乾は、手塚の着ているシャツのボタンを、器用に片手で外していく。
全部ではなく、半分くらい残しているのは、焦らして楽しむためだろう。
そういうのは、嫌いじゃないから、あえて何も言わない。
胸元に進入してきた指は、ゆっくりと円を描くように動く。
感じやすい場所を、巧みに避けて、じわりじわりと少しずつ手塚を煽る。
こんなときの乾は、とても辛抱強い。
先に我慢がきかなくなるのは、大抵手塚の方だ。
今日は、今のところ、まだそれほど切羽詰ってはいない。
心地よいと言える範囲で、収まっている。
あとどれくらいこうしていられるかは、わからないけれど。
首をひねって乾の顔を見上げると、唇の端だけで笑う。
夏でもあまり日に焼けない白い顔は、普段と少しも変わらないように見える。
でも、切れ長の目は、艶っぽい。
その目で見られると、肌に触れられるのに負けないくらい、ぞくぞくする。
乾も本気になりつつあるのだということを、強く意識した。
「飽きないのか」
「セックスに?それとも手塚に?」
乾は、手を止めずに、普段通りの声で言った。
「俺とのセックスに」
「飽きないね」
短く答えてから、乾は小さく笑った。
「というより、前よりもっと嵌っている気がするよ」
「お前が言うと、嘘くさい」
「ひどいな。こんなに好きなのに」
笑いながら、乾は手塚の首筋を唇でたどっていく。
数え切れないほど身体を重ねてきた乾は、手塚の感じやすいポイントを的確に繋いでいける。
首筋から鎖骨へと、薄い唇が移動する。
舌とは違う感触は、もどかしくてくすぐったい。
身体を捻り、強引に腕を伸ばすと、察しのいい男は、すぐに大きな掌で手塚の身体を支える。
細く見えるけれど、きっちりと筋肉のついた腕は力強い。
どうして、この腕がなくても、生きていけるなんて思ったのだろう。
考えるよりも先に、手が勝手に捕まえようと動く相手なんて、乾しかいないのに。
乾と離れて暮らしていたころ、どうやって息をして、どうやって眠っていたのか、あまり良く覚えていない。
覚えているのは、テニスをしていたことだけだ。
テニスさえできれば、他はどうでも良かったのかもしれない。
そのテニスを辞めた今、息をしたり眠ったりするするために、乾がいてくれないと困る。
自分にとって、乾はそういう存在なのだ。
「なにを考えている?」
背後から、低く抑えた声が聞こえる。
「別に。たいしたことじゃない」
少し前まで、乾の膝を枕にしていたのに、今は上半身を後ろから抱かれている状態だ。
ソファに凭れた乾に、さらに手塚が凭れていることになる。
少し狭いけれど、座り心地は悪くない。
だが、このソファはただ大人しく手塚を座らせるだけではない。
ボタンの外れたシャツの下を、大きな手が撫で回す。
今日は涼しいとは言え、狭いところで密着していれば、どうしても暑くなってくる。
薄い布越しに、肌の熱さが伝わってきた。
頭を倒し乾の顔を見上げると、黙って唇を重ねてきた。
こうやって、今欲しいものを、すぐに与えてくれるこの男が、本当に好きだ。
「で?まだベッドに移動しないのかな」
唇を離してから、乾が薄く笑う。
「もう少し、ここにいたい」
身体はもう十分過ぎるほど、乾を求めている。
でも、なぜだかもう少し、こうやって背中を抱かれていたい気がする。
「わかった」
何の説明をしなくても、乾はちゃんとわかってくれる。
「でも、限界が来たらここで押し倒すかもしれないけど」
「好きにしろ」
ただ甘やかすだけの男では、面白くない。
少々手癖が悪い椅子に、深く座り直してみた。
耳元でくすくすと笑う声がして、それから眼鏡を取り上げられた。
手癖も悪いが、少し意地も悪い男は、自分の眼鏡を外す気はないようだ。
どうするつもりなのかは知らないが、されることには予想はつく。
どっちにしろ、手塚にとっては気持ちがいいことなのは間違いない。
ゆっくりと自分の身体が倒れていく間も、力は完全に抜けていた。
乾に任せておけばいい。
それが一番気持ちがいいのだから。
2010.08.21修正加筆