特上
右手にぶら下げた紙袋の、ずっしりとした重みが嬉しい。一刻も早く手塚に届けるために、すぐにでも駆け出したいところだが、紙袋の中身を揺らすのはためらわれる。
なので、可能な限り速く静かに歩くというのを、駅を出てからずっと続けていた。
難しいし疲れるけど、それもさほど苦にはならない。
手塚には家に着くであろう時間はすでに伝えてあるから、おそらくもう準備万端だろう。
通常の速度なら、自宅まではあと5分程度の距離だ。
今日は3分で着いてみせる。
乾は、紙袋のもち手をぎゅっと握り締め、歩く速度を上げた。
今日は土用丑の日。
一般的には鰻を食べる日として知られている。
江戸時代に平賀源内が作ったキャッチコピーが、平成になっても有効というのもすごい話だ。
実際は、ビタミンB群が豊富なものなら同様の効果があるはずだが、やっぱりここは伝統を守るということで、鰻にしたい。
それに、鰻は手塚の好物だ。
手塚の喜ぶ顔を見るためには、やっぱり鰻じゃなくちゃ駄目なのだ。
だから、毎年必ず土曜の丑の日には、ふたりで鰻を食べることにしていた。
今日は平日だったので、乾が仕事帰りに馴染みの店に予約してあった鰻重を、受け取ってきたというわけだ。
味が落ちないうちに、これを少しでも早く手塚に食べさせたい。
だから、急ぎ足も苦痛じゃないのだ。
5分かかるところを、本当に3分に短縮し、乾は自宅のドアを開いた。
「ただいま」
「おかえり」
いつもと同じ涼しげな顔で手塚が出迎えてくれた。
「はい。約束の鰻重」
「ありがとう。結構重いな。暑い中、大変だったろう」
紙袋を受け取った手塚は、そっと持ち上げて重さを確かめているようだ。
迎えてくれた手塚は、今のところ、それほど喜んでいる様子はなかった。
でも、基本的にいつもそんな感じなので、乾は気にしない。
「確かに暑かった。この部屋は涼しくていいな。生き返る」
部屋の中は、外とは別世界の涼しさだった。
乾の職場では、夏場はクールビズを導入していて、軽装で出勤してもいいことになっている。
今日は半袖のカッターシャツにノーネクタイという服装だったが、それでも帰り道には汗だくになった。
「これでもクーラーの設定温度は高めにしてあるんだがな」
手塚は軽く微笑みながら、鰻重の入った紙袋をテーブルの上に置いた。
昨年から、我が家も節電対策として、エアコンの設定温度を高くしてある。
扇風機を併用することで、それなりに快適に過ごせていた。
「すぐ食べるか?」
紙袋の中身を取り出した手塚が、乾の方を振り返った。
予想通りに、テーブルの上は、すぐに食事できるように準備されていた。
「うん。冷めないうちに食べよう」
「じゃあ、肝吸いだけ温めなおそう。その間に着替えて来い」
部長じゃなくなって十年以上立つのに、いまだに命令口調が自然と出てくるのが手塚だ。
乾はそれを嬉しく思いつつ、着替えに向かった。
本当はシャワーを浴びたいところだが、今日は鰻のために我慢しよう。
「旨い」
二人、ほぼ同時に声が出た。
今日の鰻重は、奮発して特上にしたが、さすがに旨い。
身はふっくらと肉厚で、タレも甘すぎず上品な味付けだった。
毎年、土用の丑の日は同じ店で予約して買っているが、この味に慣れてしまうと他で食べる気にならない。
もともと、鰻は手塚の好物で、乾はそう好きでもなかった。
だが、手塚に連れられて、この店で初めて食べたとき、鰻とはこんなに美味しいものかと驚いた。
それ以来、鰻を食べるならここと決めていた。
ふたりもくもくと箸を進めていたが、半分ほど食べ進んだところで、手塚は遠慮がちに口を開いた。
「今年は高かったろう」
今年に入ってから、鰻の値段が高騰していることは、何度もニュースに取り上げられていた。
土曜丑の日が近づいてからは、ほぼ毎日のように鰻が高いことを嫌というほど聞かされた。
だから、手塚がそう言いたくなる気持ちもわかる。
食べているときには、あまり値段のことは言いたくなかったのだろうが、つい口に出てしまったという感じだった。
「実はね。そうでもなかった」
「そうなのか」
「うん。まあ少しは上がっていたけど、たいした金額じゃない」
乾は、正直に今日の鰻重の値段を明かした。
もともと、手塚の行きつけの店なのだから、隠しても無駄だ。
手塚も値段を聞いて、驚いた顔をした。
「なんだろうな。独自の仕入れルートでもあるのか。店の努力なのか。こっちとしてはありがたいけど」
「そうだな。本当にありがたくいただかないとバチが当たるな」
間違いなく鰻は手塚の好物だが、今では以前ほど頻繁には食べなくなってきている。
年齢とともに、食べ物の好みも少しずつ変わってきているのだ。
たまにしか口にしないものだから、食べるときには少しくらいは贅沢をしてもいいだろう。
「いつもの通り、俺の驕りだからな。ゆっくり味わってくれ」
「ありがとう。本当に美味しい」
手塚は、にっこりと笑って、また鰻を口に運んだ。
その顔が見たくて、暑い中を精一杯急いで帰ってきたのだ。
汗だくになった甲斐がある。
数年前から、土曜の丑の日は、乾が手塚に鰻を奢る約束になっていた。
そのかわり、手塚は乾の好物を奢り返すという取り決めだった。
それなら、最初から、自分の好きなものを自分の財布をで、好き勝手に食べるのが手っ取り早い。
でも、日々の生活の中の、ほんのちょっとしたレクリエーションみたいなものもあっていいと思っている。
美味しいものを食べるのは、単純に楽しいし幸せだ。
それが大好きな相手の喜ぶ顔なら、嬉しさは何倍にも膨れ上がる。
一緒に食事をして、一緒に美味しいと言ってくれる。
そんな当たり前の喜びに、日々感謝しているといえば大袈裟だろうか。
手塚と暮らすようになってから、自然と出来上がってきたルールや習慣は、気づけば沢山ある。
一緒に暮らし始めたときは、傍にいることそのものが、特別だった。
今は、手塚がいつも一緒にいるのが、普通になった。
普通の生活で生まれたルールは、ふたりの時間が作りだし、これからもそれを維持していくためのものだ。
こうやって地に足をつけて、普通の日々を積み重ねていく。
これからもずっと。
ときには、ちょっと贅沢をして、平凡な日常に少しアクセントをつけるくらいでちょうどいい。
「ご馳走様でした」
ちゃんと両手を合わせて頭を下げる手塚という人が、本当に好きで仕方ない。
こんな手塚が見られるなら、夏の間にもう一度くらい鰻を奮発してもいいと、乾は思った。
2012.07.27(2012.07.31加筆修正)
土用の丑の日といえば手塚を思い出す。そんな人が沢山いると思う。