雨の森

バイトもなければ、手塚もいない日曜の午後だった。
朝から途切れることなく雨が降っている。
晴れなら晴れ、雨には雨の楽しみがあるので、憂鬱でもなければ退屈でもない。
ひとりの時間も悪くはない。

手塚が出かけると聞いたときから、今日の予定は決まっていた。
半袖のTシャツに薄手のパーカーを一枚羽織ってアパートを出る。
激しくはないが、細かい雨粒が煙るように降っていた。
春から初夏への変わり目のせいか、ここのところ天候が不安定だ。
だが、暑くも寒くもない、この時期特有の半端さは嫌いではない。

電車で一駅の距離を、わざわざ歩いていくのは、この空気を楽しみたかったから。
雨が他の音を吸収するのか、街の中はひっそりと静かだった。
こんな時間のすごし方も、たまには良いと思う。

目的地には、ほぼ予想通りの時間に着いた。
我ながら、正確な計算に感心する。
入場券を買うとき、受付の女性から物好きなという目で見られた。
でも、考えすぎかもしれない。

雨降りの植物園に、人影は見えなかった。
手塚には話していないが、時期外れの桜を見に来て以来、何度かここを訪れている。
来るときは、必ずひとりだった。
隠すつもりはないが、わざわざ言うことでもないと思っていた。

貸し切り状態の園内を、ゆっくりと歩く。
自分の中では、もうルートが決まっていて、自然と足が動く感じだ。
前に来たときより、植物の匂いが濃くなった。
木々も一層葉を茂らせ、雨に洗われた緑色が鮮やかだ。
花を咲かせている木もあるが、全部の名前は覚えきれない。
手塚がいたら、データマンのくせにと笑っていただろうか。

目的の半分くらいまで来たところで、前方に人がいることに気がついた。
さっきまで誰の気配もしなかったのにと、思う。
少なくとも入り口から、ここまで歩いてくる間にひとりも見ていない。
だが、これだけ沢山の木が生い茂っているのだ。
乾からは見えないところを歩いてただけかもしれない。

なんとなく気になって、前を行く人の後姿を観察してみた。
そう弱くもない雨が降り続いているのに、傘をささずに歩いている。
よく見ると、そのシルエットが小さく感じた。
もしかしたら、あれは子どもなのではないだろうか。
じっと目を凝らしてみるが、間違いないようだ。

傘もささずに、ひとりで歩く子ども。
日曜の午後に、雨の植物園を訪れる客としては、珍しい気がする。
背格好から判断して、小学校の高学年というところだろうか。
その年頃にしては、随分と歩くのが早い。
乾との距離は、あまり縮まらない。
おそらく、少年だと思われるその姿は、ひっそりとした森の中で、神秘的にも見えてきた。

小さな先客は、少しも脇見をせずに、真っ直ぐに進む。
きっと、目的はひとつであり、それ以外には興味がないようだ。
先を歩いていた少年は、ある木の前でぴたりと足を止めた。
思ったとおり、目指すものは同じだったらしい。
その子どもが立ち止まった先にあるのは、あの奇跡を起こす桜の大木だった。

華奢な後姿に、一歩ずつ近づく。
どこかで見たような背中だ。
今日が雨降りでなければ、もっと早く気がついていた。
髪が湿っているから、特徴的な毛先のくせが消えているのだ。
「手塚?」
ゆっくりと振り返った顔は、間違いなく手塚だった。
初めて出会ったときよりも、更に幼い姿ではあったが――。

透通るような白い頬。
薄茶色の目。
オーバル型の眼鏡のレンズには、水滴が浮かんでいる。
髪は濡れてしまっているから、やや濃く見えるが、きっと普段は明るい褐色だろう。
今の手塚よりも、もっと全体の色素が薄い感じだ。
だが、あどけなさの中にも凛とした強さが見え隠れし、高貴ささえ漂わせている。

手塚だということは疑いようもないが、少なくとも目の前にいるのは、まだ子どもだ。
いきなり呼び捨てでは、怖がらせてしまったかもしれない。
乾を見上げる手塚に怯えた様子はないが、僅かに眉根を寄せる顔に緊張が見てとれる。
少し屈んで傘を差し出し、なるべく威圧感を与えないよう気をつけながら話しかけた。

「手塚、国光君だよね」
「乾……なのか?」
答える声が幼い。
変声期前の高い声だ。
でも、やはり手塚なのだと確信する。

彼の言う乾とは、自分であって自分ではない。
乾の知る手塚と目の前の手塚が、同じであり同時に別人であるように。
それは、理屈ではなく直感でわかる。
目の前の子どもに向かって、乾はゆっくりと頷いた。

彼が着ているのは、学校の制服なのだろうか。
上下が揃いで、きちんと臙脂色のネクタイを締めている。
膝が隠れる程度の半ズボンが、とても可愛らしい。
黒いエナメルの靴には、少し泥がついていた。
乾は、ポケットからハンカチを取り出し、髪や肩についた水滴を拭いてやった。

「風邪を引くよ。どうして傘も持たずに来たのかな」
「さっきまでは晴れていた」
「どういうこと?」
乾の問いかけに、小さな手塚は躊躇いつつ首を横に振った。
「わからない。庭を歩いていたはずなのに、いつのまにか、ここにいた」
ぶっきらぼうな話し方が、手塚と同じだ。

「迷ったのかな」
彼は小さく首を傾げたが、すぐに傍らの桜を見上げ、指差した。
「この木には見覚えがある」
だから、真っ直ぐに目指してきたのか。
細切れの情報を繋ぎ合わせるのは、得意だ。
ましてや、話す相手が手塚なら。

「ちゃんと、帰れるかい?」
「多分、乾が迎えに来てくれる」
子どもの姿と子どもの声だが、二十歳の手塚とそう変わらない表情で頷いた。
きっと手塚も小さいときから、こうだったのだろう。

「この傘、あげるよ」
子どもには少し大きいけれど、このまま濡れていると、本当に風邪を引く。
だが、小さい手塚は困ったような表情を見せ、受け取ろうとしない。
多分、申し訳ないと思っているのだろう。
こんなところも、手塚と同じだ。

「俺は大丈夫。家が近いからね。心配しなくていい」
これは嘘だが、間に合わせの傘くらいコンビニに行けば、すぐにでも買える。
にっこり笑って、傘の柄を彼に向けてやった。
「ありがとう」
差し出した傘を受け取る手は、まだ小さい。

「家に帰ったら、すぐに濡れた服を脱ぐんだよ。ああ、そのまま風呂に入ったほうがいいな。そして、ちゃんと髪を乾かして、何か温まるものを飲むこと。いいね」
「温まるもの?」
「うん。そうだな。ホットミルクかココアがいい。誰か、作ってくれそうな人はいる?」
小さな手塚は、こくんと頷いて、控えめな笑顔を浮かべた。
やっぱりこの手塚も、大きな声で笑ったりしないのだろうか。

「ココアなら、頼めば乾が作ってくれる。乾のココアは、すごく美味しいんだ」
この手塚の傍にいる乾も、お節介で手塚を構うのが大好きなのかもしれない。
おねだりされれば、喜んでとびきり美味しいココアを入れてやるだろう。
自分なら、絶対そうする。

「そう。じゃあ、心配ないね」
もうひとりの乾が彼のそばにいるのなら――。
目の前の手塚が口にする乾という響きには、強い信頼と愛情みたいなものを感じる。
それがとても嬉しい。

小さな手塚は、急にはっとしたような表情で顔を上げた。
「乾が呼んでいる。きっと、探してくれているんだ」
自分には何も聞こえなかった。
「帰らなきゃ。……傘をありがとう」
手塚は軽く頭を下げると、遠くにある一点を見つめて走り出した。

雨の中を走ると危ない。
そう声をかける間もなく、ゆらりと風景が揺らいだように見えた。
足元がふらついて、咄嗟に目を閉じる。
次に瞼を開けたときには、もう子どもの姿はどこにもなかった。

夢か幻を見ていたのかと思った。
だが、確かに持っていたは傘は消えているし、彼が佇んでいた地面には、小さな靴跡も残っている。
乾は、さっきまで小さい手塚が見上げていた大木を、同じように見上げてみる。
当たり前だが、もう花は咲いていない。

この桜は不思議を起こす。
前に、自分や手塚が見た夢と無関係でもないだろう。
どこか別の場所にいる、自分のところに帰っていったのなら、それでいい。
今は、彼が風邪を引かないことだけを祈ろう。
雨の止まない空を仰いでから、乾は今来た道を引き返した。

植物園を出ても、傘を買う気には、なれなかった。
柔らかい雨粒が肌にあたるのが、気持ちよく感じたのだ。
だから、そのまま濡れながら歩いて帰った。
不思議と身体は冷えなかった。
大きな手塚に会いたいと思った。

家に着くと、既に手塚が帰宅していた。
ずぶ濡れの乾を見て、驚いている。
「朝から雨降りだったのに、傘を持っていなかったのか?」
「持っていたんだけどね。なくしたんだ」
手塚は呆れたような顔をして、息を吐いた。

「早くシャワーでも浴びて来い。風邪を引くぞ」
「うん。そうする」
まっすぐにバスルームに向かい、濡れた服を脱ぎ捨てる。
頭から熱い湯を浴びて、やっと、自分が冷えていたことを知った。
小さな手塚も今頃温まっているだろうか。
彼のことを考えると、自然と頬が緩んでしまう。

バスルームから出ると、タオルと着替えが、綺麗に折りたたんで置いてあった。
ありがたくそれに袖を通し、タオルを頭に被る。
濡れた服は洗濯機に放り込んだ。
ごしごしと髪を拭きながらリビングに戻ったら、手塚がキッチンに向かっていた。

「着替え、ありがとう」
「ああ」
手塚は顔を上げずに返事をした。
これだけ付き合いが長いのに、まだ乾に対して照れるのだから、手塚は可愛い。
タオルを被ったままソファに座り、ほっと息を吐いた。

「熱いから気をつけろよ」
背後から手塚の声がした。
「ん?」
タオルを頭から外し、首にかけると、ちょうどキッチンから、手塚が何か運んできたところだった。
大きなマグカップが乾の前に置かれる。
とたんに湯気と一緒に、甘い香りが立ち上った。
これは多分、蜂蜜と生姜の入ったホットミルクだ。

「温まるぞ。飲め」
手塚はそう得意げに言って、乾の隣に腰を下ろした。
「それ、俺が手塚に教えたんだよね」
「なんのことだ?」
不思議そうに傾けた首の角度は、小さな手塚とまったく同じだった。

2008.05.23

同棲大学生乾塚。溺れる回・遊・魚さまの魔界シリーズとシンクロしてます。
一本にまとめなおしました。

奇跡を起こす桜の前で、それぞれの時間が一瞬重なるというのを書いてみたかったんです。
書かせていただけて、幸せでした。ありがとうございます。