Gray Wolf
「手塚」長い時間ずっと無言だった乾が、口を開いたのは、手塚がソファで新聞を読んでいるときだった。
乾は朝食を済ませてから、ずっとひとりでパソコンに向かっていたのだ。
休みの日には、よくあることだったので、手塚の方も自分の好きなように時間を過ごしていた。
乾は、キャスターつきの椅子ごと身体をこちらにむけ、手招きしている。
「なんだ?」
「いいからいいから。ちょっと、こっちに来て」
乾は、面白いことを見つけたときの顔で、にやりと笑っている。
きっと、手塚が言う通りにするまで、手招きを止めることはないだろう。
手塚は新聞をテーブルの上に畳み、乾のところまで歩いていった。
「手塚が見たのは、これじゃないかな」
乾はパソコンデスクの上にある、大きな液晶ディスプレイを指差した。
これはバイト代を貯めて買ったばかりの乾自慢の品だった。
そこに映し出されているものは、いくつかの動物の画像だった。
どれもみんな犬のような生き物だ。
「似ているのは、いないか」
乾が言っているのは、手塚が先日、植物園で会った動物のことだ。
手塚は犬だと思ったが、乾は違うという。
画面には小さな画像が沢山並んでいる状態だ。
手塚は記憶をたどり、似ていると思われる一枚を選んで指を示した。
「これだね」
乾が、手塚が示した画像をクリックすると、画面いっぱいに広がる。
そこには、ぴんと尖った耳と、野性味を帯びた目が印象的な動物がいた。
「ああ、そうだ。こんな感じだった」
もう少し全体の毛が濃い色だったが、良く似ている。
手塚の返事を聞いて、乾は満足そうに頷いた。
「やっぱりね。それはハイイロオオカミの子どもだ」
今度はハイイロオオカミ、という文字をサーチボックスに打ち込み、更に絞り込む。
画像を一覧表示させると、様々なオオカミの画像がずらりと並ぶ。
中には、まだ小さなオオカミの姿もある。
「狼でも、子どもは可愛いな」
母親オオカミの乳を飲んだり、大きなあくびをしている子どもの姿に、乾は目を細めた。
確かに、実物もとても可愛かった。
許されるものなら、連れて帰って来たかったほど、愛しい気持ちになった。
それが不可能であることも、直感的にわかってはいたのだが。
「もう一度会いたい?」
手塚の顔を見上げて、乾が微笑む。
「出来ればな」
「会えるかもしれないよ」
あれは、桜が引き起こした奇跡のひとつで、滅多に遭遇するものじゃない。
手塚がそう言おうとしているのを察したのか、乾は先回りして言葉を続けた。
「俺が小さな手塚に会えたんだから、可能性はゼロじゃないと思う」
そうだ。
乾は、子どもの姿の自分にあの場所で出会っているのだ。
「あの場所でなら、何が起こっても不思議じゃない」
「そうかもしれないな」
既に、奇跡が二度起きているのだから、それがもう一回あったって、おかしくはない。
「もしかしたら、今度は手塚が子どもの俺に会えるかもしれないし」
椅子の上で腕を組み、乾は楽しそうに微笑んだ。
「子どもの、お前か?」
「そうそう」
今度は手塚が腕組をする番だった。
「駄目だ。今のお前が、サイズだけ小さくなっているところしか想像できない」
「え、なにそれ。気持ち悪いじゃないか」
「でも、本当のことだ」
「中学一年の俺を見ているんだから、想像くらいできるだろ?」
確かにそのはずだが、どうしても小さい乾の姿を思い出せない。
乾は生まれたときから、今の乾だったような気がしてしまうのだ。
「ひどいな。俺だって、子どもの頃はそれなりに可愛かったんだよ」
「勝手に言ってろ」
乾は声を上げて笑い、またパソコンの画面に視線を向けた。
そこには、まだオオカミの画像が表示されたままになっていた。
ぴんと耳を立て、小さな四肢で、しっかりと大地を踏みしめるオオカミの子ども。
あの一度遭っただけの生き物を思い出す。
彼は今どうしているだろう。
でも心配には及ばない。
こうして乾が自分の傍で笑顔を浮かべているように、彼らもきっと笑っているに違いない。
近いうちに、乾とふたりであの桜のところに行ってみよう。
2008.08.30
「Canis lupus」の続きです。ハイイロオオカミ=Canis lupusです。別名タイリクオオカミ。
子どもは本当に可愛らしい。