隠し味
「ただいま」チャイムを押しても反応がなかったから、誰もいないのはわかっている。
それでも一応声をかけてみるのは、手塚と暮らすようになって、いつのまにか癖になってしまったことのひとつだ。
今日は日曜日だけれど、ひとつバイトが入っていて、本当ならもう少し遅い時間に帰宅するはずだった。
そこを予定よりも二時間ほど早く帰ってこられたのは、バレンタインの夜だからという雇い主の温情のおかげだ。
場合によっては、とても残酷な仕打ちにもなりかねないが、時給ではなく日給で働く身としては単純にありがたい。
手塚のいない部屋の中は、ほんのりと暖かい。
俺が帰る直前まで、ここにいた証拠だ。
きっとすぐ戻ってくるつもりだろう。
そうでなければ、手塚のことだから、きっと連絡をよこすはずだ。
とりあえず、うがいと手洗いをし、着替えを済ませてからリビングに戻る。
時刻は八時を半分ほど過ぎたところだ。
夕食をどうしようかと考えながら、なんとなく部屋の中を見回すと、出かける前にはなかったものが目に留まった。
テーブルの上に、リボンのかかった四角い箱がひとつ置かれている。
箱の大きさはB6くらいで、厚みの方は大体30ミリくらいだろうか。
近づいてよく見てみると、光沢のある茶色の包装紙に、細い金の文字が入っていた。
恐る恐る持ち上げてみたが、そう重くはない。
2月14日にリボンのかかった箱といえば、中身はチョコレートである可能性が高い。
それなら、冷蔵庫に入れた方がいいんじゃないかと考えた。
しかし、勝手に動かしてしまっていいものか。
箱の他には、誰が誰に向けて贈ったものかを示すものは、何もない。
さて、どうするか。
チョコレートだろうと思われる箱を前に、俺は考えた。
リボンのかかった綺麗な箱は、どうみても誰かへのプレゼントだ。
これがチョコだと仮定すると、いくつかのパターンが予想できる。
甘い予測をするならば、手塚が俺のために用意したものという可能性もある。
が、確立としては、ほぼゼロに近い。
まあ、おそらくは手塚が誰かから、もらってきたと考えるのが妥当だろう。
そう結論付けて、とりあえずは冷蔵庫に入れておくことにした。
冷蔵庫のドアを閉めた直後、今度は玄関のドアが開く音がした。
急いで迎えに出ると、手塚がコンビニの白い袋を持ったまま立っていた。
「おかえり」
「ただいま。帰ってたんだな」
スニーカーの紐を解きながら、手塚がわずかに微笑んだ。
「ああ。少し早く上がったんだ。手塚は、買い物に行ってたのか?」
「コーヒーのフィルターが切れていたんだ。間に合わせに、コンビニで買ってきた」
「電話くれたら、帰りがけに買ってきたのに」
「そうだな。こんなに早く帰ってくるとわかってたら、頼むんだった」
手塚は、買ってきた物を手早く片付けると、上着を脱いできちんとハンガーにかける。
俺のように、脱ぎっぱなしにすることは、ほぼ100パーセントない。
手塚につきあっているわけでもないが、なんとなく座るタイミングを失って、立ったままで話しかけた。
「さっきここにあった箱、冷蔵庫に入れたんだけど」
「ああ、ありがとう。忘れていた」
「じゃあ、やっぱり冷やしたほうがいいものだったのか」
「チョコレートだからな。母が取りに来いというからもらって来た。お前と二人で食べろということだ」
そういうことかと、やっと合点がいった。
俺の推理は、あながち間違ってはいなかったが、正解とも言えない。
でも、やっぱり誰かからチョコレートを貰うのは、単純に嬉しいものだ。
「俺が喜んでいたって、伝えておいてくれ」
「わかった」
自分の家族の話をするのが照れくさいのか、すぐに話題を変えてしまった。
「夕食はカレーでいいか?温めなおせば、すぐ食べられる」
「うん。匂いで気がついてた。嬉しいな、カレーが食べたかったんだ」
「そうか。じゃあ、すぐに暖める」
台所に向かう手塚の後を、急いで追いかける。
「サラダか何か作ろうか?」
「卵をゆでてあるから、それを使ってくれ」
「いいね。ミモザサラダにしよう」
手塚が、それはなんだ?という顔をしたが、説明するより見せた方が早い。
カレーを温める横で、サラダを作る作業に没頭した。
二人でやれば、夕食の準備もあっという間だ。
手塚作のポークカレーと、俺が作ったレタスとキュウリのミモザサラダ。
そして、お手軽に電子レンジで作ったきのこのマリネがテーブルに並んでいる。
コーンスープはレトルトだが、なにもないよりは遥かに良い。
手塚家のカレーは、いかにも家庭的な素朴な味わいで、とても旨い。
二人で暮らすようになったばかりの頃、あまり料理のレパートリーがなかった手塚が、よく作るのがカレーだった。
俺は、それがすっかり気に入って、何度も作ってもらった。
今では、手塚の一番得意な料理と言っていいだろう。
今夜のカレーも、文句なく美味しい。
だが、いつもの味とは、少し違っているような気がする。
「手塚。今日のカレーって、いつもと同じルー?」
「ああ」
向かい合わせに座る手塚は、左手にスプーンを持ったまま顔を上げた。
「そうか。いつもとは、少し味が違うように思ったんだが」
「スパイスや調味料を足してみた。口に合わないか?」
「いや、美味しいよ。こくが出ている感じだ」
「じゃあ、成功したってことだな」
成功という言葉を使うということは、実験的な試みをしたということだろうか。
自分には良くあることだが、手塚には珍しい。
口を開いたついでに、さっきチョコレートを見て考えたことを、素直に白状することにした。
「さっきのチョコレート、実は手塚が俺にくれたのかなって、ちょっと思っちゃったよ」
正直に言えば、リボンのかかった箱を見た瞬間、何も期待しなかったわけじゃない。
だが、どう考えても、手塚の性格や行動パターンから見て、ほぼありえないと結論付けた。
そもそも自分だって、特別なことをしなかったのだから、期待する方が甘いのだ。
しかし、手塚からの返事は、俺にとってはとても意外な言葉だった。
「さっきのは違うが、俺からのチョコレートなら、お前はもう食べているぞ」
「え?いつ?」
「たった今」
「どういうことだ」
言っている意味が、まるでわからない。
「それだ」
手塚は表情を変えずに、俺の目の前の皿を指差した。
言うまでもなく、そこには手塚特製のカレーが盛られている。
「これ?」
「そのカレーには、隠し味にチョコレートが入っている」
「あ」
さっきの違和感の正体が、やっとわかった。
もちろん、チョコレートの味がそのまま出ているわけじゃない。
でも、確かに食べなれたいつもの手塚のカレーとは違う、深みみたいなものがある。
納得した俺に向かって、手塚は小さく笑って見せた。
「十日くらい前に、お前が板チョコをまとめ買いしたことがあったろう?」
思い出した。
普段はあまり甘いものを食べないが、根を詰めて頭脳労働したときなんかには、どうしても糖分が恋しくなる。
板チョコなら、手軽に口に入れられるので、気が向いたときにまとめ買いをする。
手塚の言う通り、十日ほど前に、数種類の板チョコを10枚くらい買ってきたのだった。
「あれの残りを、少し入れさせてもらった」
「そういうことか」
「そういうことだ」
手塚が笑うので、釣られて俺も笑ってしまう。
「だから、厳密に言えば、これはお前からの贈り物とも言えるわけだ」
「なるほどね」
笑いながら、妙に納得してしまった。
俺と手塚が過ごしてきた時間。
これから送るであろう日々。
それを考えたら、年に一度のバレンタインなど、それほど重要視する意味はないのかもしれない。
ほんの少し、ささやかなときめきを忘れない程度の甘さがあれば、十分なのだ。
板チョコひとかけ分を、日常のスパイスに使うくらいで、ちょうどいい。
「旨いよ」
「だろう?」
自信たっぷりに笑う手塚の前で、スプーンにすくったカレーを一口味わう。
「愛情がこもってるからね」
「誰の?」
「二人分の、じゃないかな」
手塚は軽く鼻で笑ってから、ずっと止まっていた左手を動かし、カレーをすくい取る。
「まあ、そういうことにしておいてやる」
どこまでも偉そうな態度は、テニス部の部長時代と変わらない。
口に含んだカレーには、こくを感じはしても、チョコレートそのままの味はしない。
甘くはなくても、確かに存在する糖分が、今の俺にはこれ以上ないくらい美味しかった。
2010.05.09
20xx.xx.xx
5月だと言うのに、バレンタイン。なぜこんなことになってしまったのか。
甘くなくてもいいと言いながら、このあと思い切りいちゃいちゃあまあまな夜を過ごしたのだと思う。