猫のご飯
「おかえり」笑顔で、そう言われることには慣れているが、びっくりされた経験は、あまりない。
予定外の帰宅だから驚かれるだろうとは思っていた。
というより、それを見越して、わざと事前に連絡を入れなかったのだ。
だが、驚き方は、手塚の想像とは少し違っていた。
手塚がドアの内側に滑り込み、靴を脱ぐ間も、半分口を開いて立ち尽くしている。
いつもは、予定が早まった場合は、もっとわかりやすく喜んでくれるのだが。
「帰ってくるのは明日だと思っていたよ」
少しだけ拍子抜けした気分で部屋に入ると、乾は、やっと思い出したように笑顔を作った。
「予定を変えたんだ」
「ああ、そう」
実際にこうやってこの場にいるのだから、それくらいは想像がつくだろうに、乾は大げさに頷いていた。
手塚は遠方に住む親戚の法事に出席するため、昨日から出かけていた。
金曜日に立ち、二泊して日曜に戻ってくる。
乾にはそう伝えてあった。
だが、どうやら日曜日には大きく天気が崩れ、午後からは雪になるという予報だった。
それで、多少無理をして土曜日のうちに帰宅することにしたのだ。
時刻はすでに夜の10時を回っている。
「食事中だったのか」
リビングのテーブルの上には、食器が出しっぱなしになっていた。
よく見ると、コンビニで買ったらしき小さなカップに入ったポテトサラダが置かれている。
「ああ。うん。バイトだったから遅くなったんだ」
答える乾の口調は、なんとなく歯切れが悪い。
「手塚は食事、済ませたか」
「ああ。もう食べてきた」
着替えをするために隣の部屋に行く途中、何気なく食卓をちらりと横目で見てみた。
サラダの横には、やや小さめの丼がひとつ。
中にはご飯がよそってある。
ただ、それはただの白い飯ではない。
「それはなんだ?」
手塚が足を止めて尋ねると、乾は痛いところを疲れたような顔をした。
「えーと。バター醤油ご飯…というか、まあいわゆる、ねこまんまってやつ?」
「ねこ?なに?」
「ほかほかのご飯にバターを埋めて、溶けたら醤油をたらして良く混ぜる。って、やったこと……あるわけないか」
勝手にひとりで納得し、乾は中途半端にへらへらと笑った。
確かに、手塚はそういったものを食べたことはない。
乾は、とても料理が上手い。
朝晩の食事は、ほとんど乾が作ってくれる。
面倒くさいときもあるだろうに、嫌がる顔を見せたことは一度もない。
普段はシンプルな料理が中心だが、休日等は、かなり手の込んだものも作る。
研究熱心だし、手間も惜しまない。
だから、ずっと、乾は料理が好きなのだと思っていた。
なのに、手塚がいないときには、こんなものを食べていたのか。
それとも、たまたま今夜に限り、作るのが面倒だったのだろうか。
いずれにしても、これだけで夕食を済ませるということが驚きだった。
多分、乾自身も、そう思われるのがわかっていたから、見られたくなかったのだろう。
多分、手塚の思っていることが、そのまま顔に出てしまっているらしい。
乾は照れくさそうに、へらりと笑った。
「たまーにさ、本当にたまにね。無性に食べたくなるんだよ」
「こんな偏った栄養のものを?」
白米に、醤油とバターだ。
栄養価は、たかが知れている。
「一応、鰹節も入っているよ」
あまりフォローになっていないが、乾の口調は真剣だった。
「バター入りなら冷めると不味いだろう。早く食べたほうがいいんじゃないか」
「あ、うん。じゃあ失礼して」
乾はテーブルに着くと、右手に箸を持ち、乾言うところの、ねこまんまを食べ始めた。
バターと醤油と鰹節。
それをただ混ぜただけのものを、乾は美味しそうに噛み締めている。
よほど嬉しいのか、食べている間も、目や口元が笑っていた。
その顔を見つめていたのを、乾は手塚も食べたがっていると勘違いしたのだろうか。
「食べてみるか?」と、手塚に向かって食べかけの丼を差し出した。
そんなつもりは、なかったのだが、そう言われたら興味が沸いてきた。
「じゃあ、一口」
乾のとなりに腰をおろし、丼を受け取った。
バターでご飯がぱらぱらするので、慎重に口に運ぶ。
醤油とバターの相性はいいことくらいは手塚も知っていた。
そこに鰹節の風味が加わっている。
確かに、これは悪くない。
焼きおにぎりの味に、ちょっと似ている。
「どう?」
「結構旨い」
「だろう?意外といけるんだ」
手塚の答えが嬉しいのか、乾は急にニコニコし始めた。
「もう一口貰っていいか」
「待っててくれ。今、手塚の分も用意する」
言うが早いか、乾は立ち上がって、食器棚をあけようとしている。
「お前、まだ食べ終わってないだろう。自分で作るからいい」
「いいから、いいから」
コツがあるんだよ、なんて言いながら既に炊飯ジャーの蓋を開けていた。
「量、少なめにしておくよ」
にこにこしながら、ご飯をよそい、あっという間に、ねこまんまを作ってしまった。
「はい、どうぞ。熱々だから美味しいよ」
ああ、確かにこっちの方が旨い。
夕食を済ませたといっても、早目の時間だったので、これくらいなら軽く食べてしまいそうだ。
乾も二杯目を作り、美味しそうに頬張っている。
「これ、本当に猫が食べるのか?」
「与えれば食べるだろうけど、塩分が多いから止めておいた方ががいいな」
「俺が猫だったら、好物になるな」
「これで手塚を飼えるなら、いくらでも作るけど」
「毎日は嫌だ」
「俺だって嫌だ」
乾はふっと軽く微笑んで、手塚の方に向き直った。
「明日は手塚の好きなものを作るよ。何がいい?」
「ビーフシチュー」
乾の作るビーフシチューは、ものすごく美味しいのだ。
「了解。バイト代も入ったばかりだし、ちょっといい肉を奮発するよ」
猫のご飯の翌日はビーフシチュー。
料理と呼べないようなものから、何時間もかけて作る絶品のビーフシチュー。
長年食べ続けてきた母の料理が一番美味しいと信じていたのに、今では、乾の手料理も負けないくらいに好きになってしまった。
なんだかんだで、乾にうまく飼いならされているような気がしてきた。
丼にひとくち分残っていたご飯を丁寧に集めて口に運ぶ。
今日、初めて食べたはずなのに、どこか懐かしい味だった。
2009.03.08
「大人のねこまんま」という本を立ち読みして思いついた。
手塚は二重の意味でネコなので、ねこまんまも気に入るのです。