オッカムの剃刀
俺は、乾ではない。乾も、俺ではない。
当たり前すぎて、意識することを、ときどき忘れる。
何度も、乾と身体を重ねているうちに気がついた。
乾と自分とは、まったく別の人間で、どんなに近くにいても、完全にひとつになることなんてない。
一瞬、同化したように感じても、それはただの錯覚だ。
改めて気づいたその事実は、手塚をひどく安心させた。
自分を愛する延長として、乾を求めているわけではないと、確信を持てたからだ。
セックスに限らず、乾と一緒にいるのは、とても心地よい。
気持ちが良すぎて、色々と困るくらいだ。
乾が好きだから、心地よいのか。
心地良さをくれるから、乾を好きなのか。
自分でも、どちらかわからなくなるときがある。
後者がいけないとは思わないが、多少の戸惑いは感じてしまう。
乾に問えば、きっと「どちらでもいいじゃないか」と答えるだろう。
普段は、やたらと小難しい言い回しを好み、簡単なことさえ質面倒くい理屈を並べたがる奴なのに、たまにそういうことを言う。
色恋沙汰には、理屈は通用しないと、最初から割り切っているのかもしれない。
それはそれで、乾らしい。
確かに、乾の言う通りに、どっちでもいいんだろう。
というより、どちらであっても、きっと大差はないのだ。
そもそも、気持ちがいいことに後ろめたさを感じるなんて、おかしな話だ。
生殖を伴わないセックスは、最初から快感を得るための手段のはずだ。
嫌なら、最初からやらなければいいだけの話だ。
別に、乾は無理やり手塚を抱いたわけじゃないし、手塚も乾のために身体をくれてやったつもりもない。
セックス抜きの恋愛もあっていい。
もし乾と完全にプラトニックな関係であったとしても、やっぱり好きでいられると思う。
だけど、その行為でしか伝わらないことも、間違いなくある。
手塚は、それが好きだ。
必要としていると言ってもいい。
ほんのひととき、共鳴するように呼吸が重なり、体温が同じになる。
鼓動の音がどちらのものか区別がつかない。
他人だから、別の存在だからこそ、溶け合う時間が愛しい。
千の言葉であっても語りつくせないものが、裸で抱き合うだけで通じることだって、きっとある。
そこまで考えて、ふと今いるこの部屋が、少し寒いことに気づいた。
暇に飽かせて、どうでもいいようなことを、ぼんやり考えているうちに、室温がさがってしまったようだ。
今夜は、バイトで乾の帰宅が遅くなる日だった。
夕方からずっと一人で過ごしているせいか、部屋の中が暖まらない気がする。
エアコンはつけているのだが、なんとなく物足りない。
まさに人肌恋しいというやつか。
乾が聞いたら、にやにやしながら腕を絡めてくるところだ。
今なら、それも悪くないが、いない人間をあてにしてもしかたない。
煮炊きでもしたら、多少は部屋の温度も上がるだろうから、夕食の準備でも始めるか。
乾が帰ってくるまでに出来上がればいいから、焦ることもない。
時間をかけて、なにか、身体が温まるものを作ろう。
手塚はそう考えて、ゆっくりと立ち上がった。
乾が帰ってきたのは、夜の9時を少しばかり回った頃だった。
「ただいま。今日は、ものすごく寒いよ」
マフラーを外しながら笑う乾の鼻の頭が、少し赤い。
雪が降っているわけでもないのに、ジャケットのフードを被っていたところを見ると、相当に寒かったのだろう。
「食事は?」
部屋の中でふうっと息を吐く乾に、問いかけてみた。
「夕方、差し入れのハンバーガーを一個食べた」
「それじゃ、ぜんぜん足りないだろう」
「まあね」
「シチューを作ったんだ。温めれば、すぐ食べられるが」
「そりゃありがたい。いただくよ」
嬉しそうに笑う乾は、寒さでこわばったらしい手を、ごしごしとこすり合わせている。
「先に風呂で温まってきたらどうだ?その間に支度しておく」
「うん。そうさせてもらおうかな」
「じゃあ、すぐ用意する。お前も早く温まってこい」
「でも、その前に」
キッチンに向かおうとしていた手塚の腕を、急に引っ張られた。
「え?」
驚いて振り向くのと、乾の両腕が手塚を捕まえるのが、ほぼ同時だった。
「少しだけ、体温分けて」
苦しい程ではないけれど、振りほどくのは簡単ではない。
そんな力で抱きしめられた。
冷たい空気がまだ乾の身体を取り巻いていて、モスグリーンのセーターからは、冬の匂いがした。
いい匂いだ。
そう思いながら目を閉じると、すぐに唇を重ねてくる。
キスをねだっているとでも思ったのだろうか。
「手塚、あったかいなあ」
唇を離してから、乾が微笑む。
「お前は冷たい」
触れた頬だけでなく、重ねた唇さえ、冷え切っていた。
「触られるの嫌か?」
「別に」
我ながらつっけんどんな答えだと思うが、そんなことには慣れている乾は、ただ小さく笑っていた。
「よし。とりあえず、復活。風呂入ってくる」
するりと腕を解いた乾は、何事もなかったかのような顔をしている。
いつもこうなので、今更驚かない。
手塚の目の前でセーターを脱ぎ、バスルームへと向かう。
なぜここで、一枚だけ脱ぐのか意味がわからない。
「あ、そうだ。手塚」
乾は、バスルームの手前で手塚の方を振り返った。
「あとからでいいんだけど」
「なんだ?」
「やろう」
一呼吸空けてから、乾はにやりと笑い、言葉を継いだ。
「そういう顔してるよ、手塚」
それは一体、誰のせいだ?
いつだって、手塚をその気にさせるのは、一人しかいない。
わかりきったことを、口にしてやるつもりはない。
「とにかく温まって来い。冷たい手で触られるのはごめんだ」
「さっきは、嫌じゃないって言ったくせに」
「服の上からならいい。素肌は駄目だ」
乾は見せ付けるように、ゆっくりと唇の端を持ち上げた。
それが、手塚の好きな表情であることを、気づいているんだろうか。
「わかりました。じっくり温まってくる」
「早く行け」
わざとらしく手を振ってから、乾は、やっとバスルームに向かった。
風呂くらい、さっさと済ませてしまえばいいのに、面倒な奴だ。
でも、あとで乾と抱き合うのは、悪くない話だ。
冷えた身体を温めてくれる相手がいるなら、抱き合えばいい。
それが気持ちよいのなら、好都合だ。
小難しい理屈をつけようと、シンプルに考えようと、行き着く答えが同じなら、手っ取り早い方がいい。
好きなものは、好きなのだから、しょうがない。
2009.12.23
【オッカムの剃刀】
現象を説明する方法が何通りかある場合、よりシンプルな説明の方が、正しい可能性が高いという経験則。
細かいことはいいんだよ!という意味ではないんですが、まあそんな感じで(どっちだ)。