Prince of darkness3

「明日、桜を見に行かないか」
乾がそう言い出したのは、土曜日の午後。
窓の外が、少しずつ赤く染まり始めた頃だった。
本の読み過ぎで疲れた目に、よく晴れた夕暮れの空は、とても優しい。

「どこにだ?」
今年は開花の時期が早かったこともあり、都内なら、どこも葉桜になっているはずだ。
まさか、花の咲いていない桜を、わざわざ見には行かないだろう。
となれば、まだ桜が見られるような場所まで、遠出しようというのか。
手塚は、そう考えたのだ。

「すぐ近くだよ」
振り返ると、乾はすぐ後ろに立っていた。
乾は時々、こうやって気配を消して近寄ってくる。

「このあたりの桜は、もう終わっているだろう」
「まだ、見られるところがあるんだ。ただし一本だけだけどね」
乾は笑いながら、ある植物園の名前を言った。
そこは、規模としては大きいとは言えないが歴史のある植物園で、手塚も名前と場所は知っている。
確かにそこなら、電車で一駅くらいの距離だ。
その気になれば、歩いてでも行ける。

「本当に、咲いているのか?」
「電話して確かめたから大丈夫。ちょうど見頃だそうだ」
もう一度、窓の外に目をやり、空模様を確かめる。
綺麗な茜色に染まった空を見る限りでは、明日の天気には心配はなさそうだ。

「明日は、一日晴れだよ。風も穏やかだって」
手塚が何を考えているかなんて、乾には予想がついているのだろう。
ちらりと視線を送ると、右手の中指で眼鏡を押し上げ、にやりと笑った。
多分、一本だけ咲いているという桜に、手塚が興味を持ったことも、お見通しなのだろう。
「行く」とだけ答えると、満足そうに頷いていた。

乾の言葉通り、翌日は朝からいい天気だった。
澄んだ青い空と、柔らかい風が心地よかった。
湿気の少ない日だったので、散歩がてら植物園まで歩いていくことにした。
ゆっくりと、電車を使ったときの倍くらい時間をかけて、目的地に到着した。

驚くほど安い入場料を払って中に入ったが、あまり人の気配がしない。
乾は随分前に一度来たことがあると言っていたが、まるで馴染みの場所に着たみたいに、迷わずに桜の元へと進んでいく。

柔らかい新緑の間に揺れる木漏れ日。
野鳥の囀る声や、水の流れる音。
湿った土の匂いの中に、ほのかに混じる甘い香り。
初めてきた場所だが、どこか懐かしく感じた。

「あれだ」
乾の声に、顔を上げた。
見間違いようが、なかった。
乾の指が示す場所には、こぼれるような花をつけた桜の大木があった。
確かに花を咲かせているのは、たった一本。
周りにも桜は植えられているが、全部葉桜になっている。

ゆっくりと近づき、満開の花を見上げる。
淡いピンク色も、木の幹の模様も、確かに良く知る桜だ。
「染井吉野、なんだろう?」
手塚が聞くと、乾は大きく頷いた。
だが、染井吉野としては、稀に見るくらいの巨木だった。
大きく枝を広げ、びっしりと花をつけた姿は、圧巻だった。

「こんな大木になるものなんだな」
染井吉野は、ごくありふれた桜で、どこでだって見られる。
だが、目の前の桜は、何かが違った。
ただ大きいというだけではない。
引き付けられる特別な何かを、この木は持っている。

無言で桜を見上げる手塚の隣で、乾は静かな声で話し始めた。
「大きいというだけじゃない。この桜は不思議なんだ」
「どういうことだ?」
「この木だけ、花を咲かせる時期が他と違うらしい」
「何故だ」
「理由はわからない。でも、なぜかこの一本だけ、やたらと早い時期に咲いたり、今日のように、他の桜が全部散ってから咲き出したりするんだそうだ」

「確かに不思議な話だな」
改めて見上げた桜は、ひらりと数枚の花びらを落とした。
その瞬間、急に息苦しさを覚えた。

いや、そうじゃない。
苦しいのは呼吸じゃない。
胸の奥が痛むような、切ない感じ。
なんだろう、この感覚は。

いつか、ずっと以前、今と同じような気持ちを味わいはしなかったろうか。
とても大切なことを思い出しかけているようで、ざわざわと胸が騒ぐ。
苦しさに耐えかねて、手塚は目を閉じた。
そのまま、二三度深呼吸すると、少し力が抜けてきた。
再び瞼を開くと、満開に咲き誇る桜が目に映る。

「初めて見たはずなのに、そんな気がしない」
「手塚も、そう思うのか」
「お前も?」
「ああ」
隣の乾を見ると、自分と同じようにじっと桜を見上げていた。

「多分、俺達は見たんだと思う」
「ここではない、どこかで?」
自然と口を付いた言葉に、自分で驚く。
だが、乾は静かな微笑を浮かべ頷いた。

「実はね、この木には、桜の精が住んでいるという噂があるんだ」
「精?幽霊なら、まだわかるが」
「梶井基次郎?」
「まあな」
乾はくすりと小さく笑って、落ちてきた花びらを右手で受けた。

「噂によると、若い男性の姿で、月夜にだけ現れるらしい。とても綺麗で、幽霊みたいに恐ろしい感じはしないんだそうだ」
乾は、掌に乗った桜を見つめている。
「この桜なら、いてもおかしくないと思わないか」

染井吉野は、弱い木で、寿命は60年くらいだとも言われている。
だが、この桜は、恐らく樹齢100年は優に超えているだろう。
なぜこの桜だけが特別なのか、手塚にはわからない。
もしかしたら、乾が言うように、何かが宿ることで力を与えられているのかもしれない。
そんなことを信じてみたくなるほど、この木は、美しい花を咲かせていた。

ここではないどこかで、この桜を見上げた自分の隣には、きっと乾が居たはずだ。
この桜に宿ったものが何かを知らなくても、それだけはわかる。
さっき感じた胸の痛みが、ほんの少しだけぶり返す。

甘く疼くような痛みは、決して不快なものではなかった。

2008.04.16

同棲大学生。溺れる回・遊・魚様の「桜」「たゆたう船」とシンクロしてます。

勢いで書いたので、後から加筆修正するかもしれません。でも、今どうしても書いておきたかったのです。
書かせてくださってありがとうございました。