落下する速度

年に数回、落ちる夢を見る。
場所がどこだか、なぜそんなことになったのかも、わからない。
なんだかわからないけれど、とにかく落ちる。
夢なんて、大抵そんなものだろう。
ただ、いつも共通しているのは、視界に広がるのは、真っ青な空だということだ。

爆風か何かに巻き込まれたのだろうか。
身体がふわりと持ち上がる。
抗うこともできず、宙に浮かぶ。
そして、放物線の頂点に達したところで、眩しいくらいの晴天の空を目にする。
そこでようやく、自分が今どこを向いているかを知るのだ。

後はただ落ちるだけ。
落下する速度は、スローモーションの映像のように、極めてゆっくりだ。
だから、いつも落ちながら色んなことを考えている。
いい天気だとか、あとどれ位で地面にたどり着くんだろうとか。
ゆったりと、でも確実に、身体は落ちていく。

そんな夢を、たまに見る。

「最後は、どうなるんだ?」
手塚はソファの背に身体を預け、両腕を組んだポーズで、僅かに首を傾けた。
「どうにもならないよ。それで終わり」
俺に向ける手塚の顔には不満そうな表情が浮かんでいるが、本当にそうだからどうしようもない。
不思議なことに、落下する夢は何度も見たが、覚えている限り落ちきったことは一度もないのだ。

他人の夢の話は、つまらないものの代表みたいなものだ。
暇つぶし程度の軽い気持ちで出した話題だったのに、なぜ手塚のか食いつきは悪くない。
興味深そうな表情で、俺の話に真剣に耳を傾けていた。
むしろ、こんなに熱心に聴いてくれるときのほうが少ないかもしれない。

「で、その夢にはどういう意味があるんだ」
「さあ、知らないよ。調べたことがないから」
「意外だな。お前なら、きっと分析していると思ったんだが」
手塚は、片方の眉を上げた。
きっと本当に意外だったのだろう。

「あまり意味を感じなくてね」
いわゆる夢判断やら夢占いと呼ばれるものでは、自分が見たものの意味を探り当てられるとは思えない。
心理学的にいえば、何かの象徴であるかもしれないが、きっとそれを知ったからといっても、納得はできないだろうという予感がしていた。

「怖い夢だな」
「え?どうして?」
「高いところから落ちるんだろう?普通に考えれば怖いじゃないか」
「いや、ぜんぜん怖くないんだ。むしろ、とても気分がいい」
速度を感じない浮遊感や、目の前に広がる抜けるような青い空には、不思議な爽快さがあるのだ。

手塚は黙って俺の話を聞いていた。
唇を結び、少し眉を寄せている。
それは、自分には理解し難いことにぶつかったときに見せる表情だ。
中学生のころから、少しも変わっていないのだなと思う。

手塚の左手が、テーブルの上に置いたままのマグカップに伸びる。
だが、中身が既に空だったことに気づいて、持ち上げるのを止めた。
「その夢」
片手をテーブルの上に乗せて、手塚は俺の方を向く。

「今でも、見るのか」
「たまにね」
「本当に怖くないのか?」
「うん」
そうか、と手塚は口を閉じ、空のカップに視線を落とした。

底が見えない場所に、落ちていくのは、冷静になってみれば確かに怖い。
でも、落ちている真っ最中には、複雑なことを考えている暇はない。
それに、落ちるだけ落ちた先に待っているものが、悪いものだとは限らないのだ。

「底まで落ちてみなきゃ、何もわかんないよね」
笑いながら尋ねると、手塚は挑発的に首を傾け、斜めに俺を見返した。
「何が言いたい?」
「別に何も」

俺を見つめる手塚の瞳の色は薄い。
透明度が高すぎて、深さがわからない。
そんな目だ。
見つめすぎたら、溺れてしまいそうだ。

そうならないように、少し目を細めて手塚に笑いかけた。
「落ちるところまで落ちるのも、いいかな」
「お前が言うと笑えないぞ」
「そう言いながら、笑ってるじゃないか」
「そうか?」

嘯きながら俺に向ける手塚の顔は、潔癖でもあり妖艶でもある。
どれだけ溺れても、底は、まだまだ見えない。
やっぱり、落ちるところまで落ちないと駄目なものが、この世には存在するようだ。

2008.02.25

同棲大学生。落ちる=堕ちる。堕ちる乾に萌えます。そんだけ。