Savon

まだ2月だというのに、やけに暖かい夜だった。
先週までは、バイトで帰宅が深夜になるときは、駅からアパートまで震えながら歩いていたのに、今夜はちっとも寒くない。
それどころか、急ぎ足だと少し汗ばむくらいだ。
こういうときは、かえって風邪を引きやすい。
家についたら、念入りに、うがいと手洗いをしておこう。
そんなことを考えながら、春の気配がする夜道を歩いていた。

「ただいま」
俺が玄関のドアを閉めるのと、手塚がバスルームから出てくるのは、ほぼ同時だった。
「ああ、おかえり」
手塚は萌黄色のパジャマを着て、やっぱり淡いグリーンのタオルを頭から被り、濡れた髪を拭いていた。
芽生えたばかりの草木の色は、色の白い手塚に、とても良く映えている。

「今日は暖かいな。この時間でも、駅からここまで、ぜんぜん寒くなかった」
「3月下旬並みの暖かさらしい」
片手で上着を脱ぎながら部屋に入ると、部屋の中はむしろいつもより涼しく感じた。
気温が高いから、暖房を弱くしているのかもしれない。

「夕食はできている。適当に暖めなおして食べろ」
「うん。ありがとう、着替えたら食べるよ」
脱いだばかりの上着を持って、自分の部屋に入ろうとしていた俺の足が、ぴたりと止まった。
意識してやったことではない。
手塚の横をすり抜けようとしたとき、ふいにいい香りが鼻先を掠め、自然とそうなったのだ。

「手塚」
手にしていたものを、そっくり床の上に置いて、手塚の名前を呼んだ。
「ん?」
ゆっくりと手塚が振り向く。
同時に、ふわっと、石鹸の香りがした。
懐かしいような、甘い匂い──。

自由になった手を、素早く手塚の肩と背中に回す。
そのまま少しだけ力を入れて、胸が触れるくらいまで引き寄せた。
手塚は少し眉をひそめたが、こんなことには慣れっこになっているので、大げさな反応はしない。
さらに調子に乗って、肩口に顔を埋めても、手塚はやっぱり抵抗はしなかった。


「手塚、すごく、いい匂いがする」
「シャンプーも石鹸もいつものだぞ」
「わかってる」
「お前も、同じものを使っているはずだが」
「それもわかっているよ。でも、本当にいい匂いがするんだ」

手塚の声は、そっけない。
もちろん、わざと、そうしているのだ。
冷たい科白を吐いていても、ちゃんと俺の好きなようにさせてくれている。
風呂上りの身体を無理やり抱きしめているのを、手塚自身もそれなりに楽しんでいるのだ。
まだ温もりを残した手塚から、とてもいい匂いがした。

「一緒に暮らして良かったと思う瞬間だな」
手塚は腕の中で、軽く首をひねって俺を見上げる。
「昔から風呂上りの手塚の肌が、大好きなんだ。今は、触り放題だからね。贅沢だよ」
「お前はいちいち大げさだ」
「大げさじゃないよ」

二人きりで会うこと自体が特別な出来事だったころは、こんな風に気楽に手塚に触れられもしなかった。
今すぐ会いたいと願いながら、どうしようもできないもどかしい時間。
そんな思いを抱えていたのは、そんなに昔の話じゃない。

「いい加減、離れろ。邪魔だ」
思わず腕に力が入ってしまい、手塚が苦しそうな顔で俺を睨んだ。
もちろん、これも本気じゃない。
「もう少し」
その証拠に、文句をいいつつも、結局俺の頼みを断らない。
今夜はとても暖かいから、少しくらい長く抱いていても、きっと湯冷めもしにくいだろう。

「いい匂いの手塚とこうしていると、やりたくなるな」
「やってもいいが」
「が?」
あっさりと帰ってきた答えに、思わず笑ってしまった。

「先に食事と風呂を済ませしまったらどうだ」
「そんなことをやっていたら、いい匂いが飛んじゃうだろ」
「それくらいで萎えるのか?」
「いや、別に」
あいにく、その程度で萎えるほど、繊細でもなければ淡白でもない。
手塚が本気で誘ってくれるなら、いつでもどんな状況でも、やれる自信がある。

「でも、今がいい。そんな気分だ」
「お前がそれでいいなら、まあいいだろう」
多少引っかかる言葉だが、やらせてくれるというなら願ったりだ。
ありがとうの変わりに、キスをしようとして、忘れていたことを急に思い出した。

「あ、うがいと手洗い」
「なんだ?」
「うがいと手洗いを済ませたら、すぐに行くから、先にベッドに入っててくれないか」
「食事は後回しでも、うがいと手洗いは省略しないのか」
「だって風邪引くのは、嫌だろう?」
おかしなことを言ったつもりはないのだが、手塚はあきれた様に息を吐いた。

「まあいい。好きにしろ」
そんな冷たい返事をしても、ちゃんとベッドには向かってくれるわけだ。
手塚の背中を見送ってから、洗面所に行き、両手にたっぷりとハンドソープをつけた。
十分に泡を立てながら、考える。
このハンドソープは、当然毎日手塚も使っている。
だけど確かめるまでもなく、自分よりも手塚の掌の方が、はるかにいい匂いがするだろう。

洗い立てのパジャマを着た、いかにも清潔そうなあの身体を、これから抱くのかと思うとぞくぞくする。
手塚がもう一度身体を洗いたいと思うくらい、汗まみれにしてやろう。
その前に、あの肌に触れるための手を、綺麗にしておかなければいけない。

ハンドソープの泡の柔らかさは、手塚の肌を連想させた。
俺は、手を洗いながら、欲情している。
そんな自分がおかしくてたまらなかった。


2010.02.25

乾はきっと匂いフェチ。犬属性だから。