てのひらの
子どものころから寝つきはいい方で、ベッドに入れば、すぐに眠ってしまう。眠りも深く、滅多なことで夜中に目を覚ますこともない。
ほぼ毎日、朝までぐっすり眠り、決まった時間に気持ちよく起きられるのだ。
手塚にとって、今夜はその「滅多にない日」だったようで、特に何の理由もなくふっと目が覚めてしまった。
開いた目に映るのは、暗い部屋と乾の顔だった。
なんとなくだが、まだ夜明けまでは遠い時間だと感じた。
時間を確かめる気にもならず、乾の顔を眺めてみた。
いくら夜中であっても、すぐ隣で眠っている相手の顔は見える。
というより、眼鏡を外しているから、乾の顔くらいしか見るものがなかった。
こちらに顔を向け、静かに眠る乾を見ながら、ぼんやりと考えた。
どうして突然、目が覚めたのか。
悪い夢を見ていた覚えはないし、布団から身体がはみ出したりもしていない。
となりの乾も、ただ大人しく寝ているだけで、寝言や寝相で起こされたわけでもなさそうだ。
まあ、たまにはそんなこともあるか──。
面倒くさくなって、手塚はこれ以上考えるのは、やめにした。
自分では、しっかり目が覚めているつもりでも、実際はまだちゃんと頭も動いていないだろう。
そんな状態で、あれこれ推理するだけ無駄だ。
理由がわかってもわからなくても、どうということはない。
また目を閉じて、寝直せばそれでいい話だ。
そう結論付け、手塚は毛布でしっかりと自分の肩を覆い、瞼を閉じた。
寝つきのいい自分なら、すぐにまた眠りに落ちるだろう。
だが、変に意識してしまったからだろうか。
今度は、なかなか眠気がやってこない。
むしろ、だんだん意識がはっきりとしてくるような気がする。
こうなってくると、じっと目を閉じているのが、辛く感じられてきた。
諦めて、もう一度、瞼を開ける。
目の前には、やっぱり乾の顔があった。
暗闇に慣れてきたので、白い寝顔が、さっきよりも鮮明に見える。
眠っている乾の顔は、起きているときも硬質で、より端整な印象がある。
正直に言ってしまうと、この顔がとても好きだ。
陶器のように滑らかで白い額は、つい触ってみたくなる。
乾が目を覚ます様子がないのをいいことに、手塚はそっと手を伸ばし、指先で額に触れてみた。
見た目通りに、すべすべとした感触が気持いい。
ごく弱い力で撫でてみたけれど、乾は眠ったままだ。
この調子だと、他の場所に触れても、きっと起きないだろう。
どこか触ってやろうかと考えているうち、昔のことを思い出した。
乾の髪の毛に触ってみたくて仕方なかった時期が、確かにあった。
──そうだ。
あれは、中学のころだった。
いつもツンツンと毛先が立っていて、触ったらどんな感触がするのか気になって仕方なかった。
だが、部活中には触る機会も、理由もない。
当時は、触らせてくれと頼めるような間柄でもなかった。
乾の髪型は、その頃からほとんど変わっていない。
ツンと立っている毛先を見て、手塚は小さく微笑んだ。
今は、その手触りを良く知っている。
結局、実際に手塚の願いがなかったのは、いつだったろうか?
何年も前のことなのは間違いないが、具体的な場面を思い出せない。
考えているうちに眠くなるかもしれないから、丁度いい。
乾の髪に触れた記憶を、過去に遡ってみた。
いくつかの場面が頭をよぎり、そのひとつひとつを検証する。
そうやっていくうちに、記憶が少しずつ鮮明になっていく。
遠い日に思えても、せいぜい5年分かそこらだ。
その作業に、長い時間は必要なかった。
「あ」
思い出した──。
次の瞬間、手塚は勢いをつけて上半身を起こしていた。
身体が勝手に動いてしまったのだ。
痛いくらいに、心臓がどきどきしている。
どうして忘れていたのだろう。
あんな特別な出来事を──。
「…どうした?」
不意の声に、自分の肩がぎくりと大きく動いた。
起き上がる勢いが良すぎたのか、寝ていた乾を起こしてしまったようだ。
部屋の中が暗いことに、手塚は心から感謝した。
今の顔を乾に見られるのは、本当に困る。
「手塚?」
ちらりと横を向くと、乾がまっすぐ手塚の顔を見ているのがわかった。
暗い部屋でも、下手な小細工は禁物だ。
「なんでもない」
手塚はわざと、ぶっきらぼうに答えた。
「なんだ。嫌な夢でも見たのか」
「そうだ」
どうやってごまかすかを考えるのも面倒だ。
ここは、乾の言葉に、そのまま乗っかることにした。
だが、この判断は完全な失敗だった。
「どうも、素直すぎるな。実は違うんだろう?」
乾から目をそらしているのに、にやりと笑う顔が想像できてしまう。
どうしてこの男は、寝起きであってもこんなに頭が回るのか。
こうなるともう、自分の手には負えない。
本当のことを言うしかなくなる。
手塚はため息をついてから、重い口を開いた。
「別に、悪い夢を見たわけじゃないが、なんとなく目が覚めた」
もう一度、乾の様子を伺うと、やっぱりじっと手塚を見ていた。
部屋は暗いままだし、眼鏡もかけてないのだから、はっきりとは見えてないはずだ。
なのに、どうにも落ち着かない。
乾の目を見ないようにして、その先を続けた。
「目の前に、お前の頭があって、ずっと見ているうちに、触りたくなった」
実際に額に触ってみたことは、あえて口にしなかった。
「そうしたら、初めてお前の頭に触ったときのことを思い出した」
「初めて?えーと、いつだったっけ」
「中学を卒業する直前だ」
「そうだったか。随分はっきり覚えているんだな」
ここでためらってしまうと、その先を言えなくなってしまう。
だから、迷う前にすぐに答えた。
「本当の、初めてだったから」
乾は、一瞬黙り込んだ後、ふっと小さく笑った。
ちゃんと見えたわけじゃないが、手塚にはわかる。
「ああ、それを思い出したら、いたたまれなくなったのかな?」
まるっきり乾の言うとおりだった。
「うん。わかった」
からかわれるだろうと思ったのに、存外に乾の声は優しかった。
「そろそろちゃんと寝た方がいい。身体が冷えるよ」
静かな声でそう言ってから、乾は毛布の端を少し持ち上げた。
「そうする」
手塚がいつまでも身体を起こしていたら、隣に寝ている乾だって寒いだろう。
身体を倒し、もたもたと布団に潜り込むと、すかさず乾が肩に毛布をかけなおしてくれた。
心地よい温度に包まれて、息を吐く。
毛布だけでなく、隣に横たわる乾からもぬくもりが伝わってきた。
人肌というのは、こんなに温かいものかと、改めて感じる。
今度は、ちゃんと眠れそうだ。
安心して目を閉じたら、するりと腰に手を回された。
冷えた身体を、温めてくれるつもりなのだろう。
そう解釈し黙っていたのだが、だんだん手つきがあやしくなってきた。
少し様子を見ていたのだが、足の間に割り込まれたとき、とうとう目を開けてしまった。
「おい」
首をひねると、にやにやする乾と目が合った。
「やめろ。寝られない」
「お互い様だよ。あんな可愛いことを言われて、おとなしく寝てられると思うか?」
「なんの話だ」
「思い出したら、したくならない?」
「ならない」
「え?なるだろ、普通」
そんな会話をしている間も、乾は勝手に手塚の身体を撫で回していた。
とうとうただ触るでけではなく、パジャマの中に手を差し込んできた。
その手がどこに向かおうとしているか、考えるまでもない。
乾の手首をつかんで、きつめに言ってみた。
「いい加減にしろ」
「そっちこそ、いい加減に観念したら」
耳元でくすりと笑われると、手首をつかんでいたはずの手から、力が抜けた。
本当は、ちゃんとわかっている。
強引に見えても、乾は本気で手塚が嫌がっているときには、絶対こんなことはしない。
こちらにその気がありそうなときにしか、決して手をだしたりしないのだ。
つまりは、そういうことだ。
乾には、手塚自身にも見えないことが、全部見えている。
「勝手にしろ」
そう言い捨てて、肩から力を抜いた。
これは、乾にとって都合のいい台詞じゃない。
手塚自身にとっても、同じ意味を持っている。
わかっていても、知らないふりをするのは、乾なりの礼儀なのかもしれない。
「じゃ、そういうことで」
許可を得たら、そこから先の行動は早い。
手塚はほとんど何もしないうちに、身に着けていたものをすべて脱がされた。
素肌に触れる乾の手の熱を感じながら思い出すのは、あの日のことだ。
あのときは、服は着たままだった。
自分の足の間に乾の頭があるのが信じられなくて、目を閉じたり、もう一度確かめたりを繰り返した。
恥ずかしくて、でも気持ちがよくて、どうしようもなく切なかった。
何度も突き上げてくる快感に耐え切れず、咄嗟に乾の頭を抱え込んだのだった。
「あ」
思わず出してしまったその声が、乾にどう聞こえたのか、手塚は知らない。
少なくとも、そのときは快楽がもたらしたものではなかった。
初めて、髪の毛に触った――。
その事実に気がついて、声が出てしまったのだ。
まったく余裕なんてなかったはずなのに、初めて触った乾の髪の毛の意外な柔らかさに驚いた。
ずっと知りたかったことを、ああいう形で知るなんて思ってもいなかった。
今はもう、この手は、良く知っている。
決して硬いわけじゃない。
この髪の毛が肌にふれたときの、くすぐったい感触。
掌だけじゃなくて、頬や首筋、背中でも知っている。
今は、当たり前になっていることにも、確かに「初めて」の瞬間があったのだ。
「なにを考えてる?」
低い声で問われ、目を開けると間近に乾の顔があった。
「お前の想像通りのことを」
「そうか」
微笑む乾の首の後ろに手を回し、項に指を滑らせる。
そうだ。
この感触。
昔と、少しも変わらない。
「俺の髪が好き?」
「ああ。……とても」
「俺も、手塚の髪の毛に触るのが好きだよ」
少し湿った掌が、手塚の頬を包む。
そして長い指が、手塚の髪の毛の中に、すっと差し込まれた。
たったそれだけの刺激に、全身がびくりと反応する。
「俺も、手塚の髪を初めて触ったときのこと、覚えているよ」
「……いつ…だ」
「それは、別の機会に」
小さく笑った乾は、手塚の耳元に唇を寄せ、さっきよりももっと低い声で囁いた。
「今は、こっちに集中してくれ」
頷くまでもない。
片手で髪を撫でられ、もう片方の手で昂ぶりに触れられているのだ。
嫌でも、そうなってしまう。
急激に高まっていく快感に、呼吸が乱れる。
声を出してしまっているのがわかっていても、もう抑えることができない。
思わずしがみついてしまった自分の手に触れるのは、やっぱり乾の髪の毛だった。
多分、これから何度も思い出す。
初めて触れたあの日のこと。
乾も同じように、初めて手塚の髪に触れたときを、繰り返し思い出してくれるだろうか。
それはまた別の夜に、乾に訪ねてみよう。
そのときは、手塚の方から、乾を押し倒してやる。
どうせ、きっとやりたくなるのだから。
2011.05.07
手塚のありとあらゆるそっち方面の「初体験」は、全部乾が相手というのが自分的デフォルトです。
ちまちまと細切れにアップしてきたけど、ようやく完了。一度止まったエロ文を再開するのは、難しいんですが絡み絵修行の成果が出て、どうにか書けました。修行、大切。