ウは鰻のウ
ドアを開けたら、鰻が待ち構えていた。比喩ではない。
本当に、アパートのドアを開いたら、目の前に鰻があったのだ。
もちろん、鰻が自力で宙に浮いているはずはなく、お持ち帰りの鰻重らしきものを持った乾が立っていたというのが正しい。
蓋つきの容器に入っていても、鰻重だとわかるのは、その独特の香りのせいだった。
そして、今日は土用丑の日。
勘の鈍い手塚にだって、鰻だと想像がつく。
「鰻重買ってきた。まだ暖かいから、すぐ食べよう」
手塚に、ただいまの挨拶もさせない勢いで、乾は言う。
そして、「た」と言おうとしたところで、すべての動作が止まった手塚に向かって、にっこりと笑いかけた。
「鰻、好きだよな?」
「好きだ」
これ以外の返事をすることなど、手塚にはできなかった。
それから、実際に食卓につくまでに要した時間は、普段の5分の1くらいだったのではないだろうか。
その間も、ずっと乾の鰻についての話は止まらなかった。
内容は良く覚えてないが、とにかく評判のいい店の鰻を、冷めないうちに手塚に食べさせたかったのだと言いたいらしい。
「俺の奢りだからね。給料が出たばかりだから、ちょっと奮発してみたよ」
手塚が手を洗ったりうがいをしたりする間に、テーブルは綺麗にセッティングされていた。
メインの鰻重に、きも吸いと漬物が並んでいる。
これもちゃんと付いていたのだと、乾は言う。
「冷めないうちにどうぞ」
乾が嬉しそうに笑っているのは、自分が鰻を食べたいからじゃない。
手塚に食べさせたいからだ。
多少のプレッシャーを感じつつ、箸を手に取った。
少し焦げたようなタレの香りが食欲をそそる。
器からはみ出しそうな鰻を、一口頬張ってみた。
乾が言うだけあって、確かに旨い。
身がふっくらと柔らかで、かなりのボリュームがあるが、タレの味は上品だ。
手塚の感想が待ち切れないのか、向かいに座る乾は、少し身を乗り出すようにして話しかけてきた。
「どうかな?口に合う?」
「ああ。とても旨い」
ほっとしたように微笑む顔を見て、ついかわいいと思ってしまった。
手塚の記憶にある乾は、中学生の頃、すでに大学生に間違えらるような奴だった。
背も高いし、声も態度も落ち着いていて、周りの同級生と比べても、ずっと大人びていた。
だが、外見に似合わず、乾には案外無邪気で子どもっぽい部分も多い。
一緒に暮らしていると、それが良くわかる。
おそらく、中学の頃からそうだったのだろうが、当時は手塚自身も子どもだったから気づいていなかったのだ。
せっかく奮発した大盛りの鰻重なのに、自分が味わうのを忘れて、相手がどんな反応をするかに気をとられている。
きっと何日も前から、土用の丑の日には鰻をご馳走しようと計画を立てていたに違いない。
俺が旨そうに食べるのが、そんなに嬉しいのかと、つい訊ねたくなってしまう。
それくらい目の前の男は、幸せそうな顔をしていた。
「今年は、天然ものの鰻が不漁だって聞いたから、早めに予約しておいたんだ」
やっと自分でも味わう余裕が出てきたのか、乾の箸も止まらなくなってきた。
「予約してたのか」
「だって、手塚の好物だからね。確実に手に入れないと」
確かに鰻は大好きだけれど、どうしても今日食べなきゃいけないと思っているわけではない。
でも、乾はどうしても今日、手塚に食べさせたかったのだろう。
おそらく、今夜の鰻はそう安いものじゃない。
かなり大盛りだし、鰻自体が上等だ。
二人前となると、結構な出費だったろう。
いくらだったかを聞いたところで、乾は絶対に言わないはずだ。
今、手塚にできることは、鰻代を半分出すことじゃない。
素直に、美味しく頂くことだ。
それが、一番乾を喜ばせるだろう。
「乾」
「ん?」
「すごく旨い」
「そうか。口にあって良かった」
心底嬉しそうに笑う乾は、どうしてもかわいいとしか形容できなかった。
2010.07.26
土曜丑の日記念。今年は天然ものが高いらしいですね。
過去最高に阿呆なタイトル。ブラッドベリが元ネタなんて、口が裂けても言えない。