Canis lupus
久々に訪れたその場所は、随分印象が変わっていた。木々は空さえ遮るほどに枝を伸ばし、視界は緑色に染まっている。
前に来たときは、春の終わりで、今は夏真っ盛り。
違って見えるのも当然だろう。
しかも、咲くはずのない花が満開になるという不思議なことが起きていたのだ。
あの日の空気が特別だったのだと、今はすんなり受け入れられる。
平日の植物園に、人影は少ない。
その上、閉園時間まで一時間を切っている。
だが見る場所は、最初から決めてあるから、焦ることはない。
手塚は、あたりをぐるりと見回してから、目的の方向に、ゆっくりと歩き始めた。
緑が沢山あるせいか、吹き抜ける風が涼しい。
乾が傘を失くしたいきさつを聞いたときから、一度ここに来ようと思っていた。
来たとしても、乾と同じような体験ができるとは限らない。
むしろ、その可能性は極めて少ないと考えた方がいい。
それでも構わないから、一度ひとりで訪れてみたかった。
自分でもよくわからないが、そうしなければいけないという気がした。
目的の場所までは、それほど長くはかからない。
忘れようのない木が手塚の歩く先に、見えてきた。
花を咲かせていないときの桜は、ひっそりとしている。
堂々たる大木であっても、どこか静けさを感じてしまう。
だが、やはりこの木には、特別な何かがある。
近づけば近づくほど、それを強く感じた。
あと数メートルというところで、あるものの存在に、手塚は気がついた。
木の根元に、黒っぽい毛並みの背中らしきものが見える。
きっと、あれは、犬だ。
目を凝らしてみたが、やはり間違いない。
あまり大きくない犬が、桜の根元に、座り込んでいた。
意識してゆっくり近づいたが、犬は手塚の気配に気がついたようだ。
すぐに立ち上がり、手塚の来る方に構えてみせた。
前足を突っ張らせて入るが、敵意は感じられない。
あまり大きくない身体からは、緊張だけが伝わってくる。
それでも、逃げようとはしない勇敢さに、感心する。
傍に近寄ってよく見れば、その犬はまだ成犬ではなかった。
ようやく子犬と呼ばれる次期を脱したような、とても若い犬だ。
手塚はあまり動物には詳しくないが、今まで見たことのある、どの犬とも違っていた。
幼さを残しながらも、顔つきは精悍で、どこか野性味がある。
灰色と黒を混ぜたような毛が印象的だ。
手塚を見上げる黒い瞳は、強い光が浮かぶ。
どうしてこんなところにいるのかという疑問は、少しも浮かばなかった。
奇跡を起こす木の前でなら、こんなことがあってもおかしくない。
驚かさないように静かな動作でしゃがみ込む。
逃げる様子がないので、そっと手を差し出してみた。
犬は、少しの間緊張していたようだが、やがて恐る恐る近づき、手塚の指先に鼻を近づけた。
かすかに触れた鼻先は冷たく濡れている。
安心したのか、その生き物は、小さな舌を出して指を舐め始めた。
湿って、くすぐったい感触を、手塚は懐かしく感じた。
そんなはずはないのに、でも、確かに知っているとしか思えなかった。
胸の奥が、急に暖かくなる。
とても大切なものを、今、自分は見ているのだという自覚があった。
無条件に感じる愛しさみたいなもの。
抱きしめたくなるような、目頭が熱くなるような、この気持ちはなんだろう。
この生き物が自分を求めてくれているのが、しっかりと伝わってくる。
そっと頭を撫でると、犬は目を細める。
そして、甘えるように手塚の足に身体を押し付けてきた。
身体は華奢だが、とても力強い。
長い毛足の背中を撫でると、犬は嬉しそうに手塚に頬をこすりつける。
時間を忘れて、手塚は何度も犬の背を撫で続けた。
どれくらいそうしていたのか。
犬は、突然はっとしたように顔を上げた。
とがった両の耳はぴんと立っている。
犬の優れた聴覚は、人間では捉えられない周波数も逃さない。
手塚には聞こえない音を聞きつけたのか。
ある方向をじっと見つめ、耳を澄ましているようだ。
犬は何も語らない。
だが、その姿には、何か強い意思のようなものが感じられた。
「行くのか?」
手塚が話しかけると、犬はくんと鼻を鳴らして振り返り、手塚の指先を舐めた。
そして、音がしたのだろうと思われる方角に向き直った。
それでも、名残惜しむかのように何度か振り向いた。
挨拶のつもりなのだろうか。
最後に短く吠えると、犬は、どこかに向かって真っ直ぐに走り出した。
まだ細い足が、しっかりと地面を蹴る。
長い距離ではなかった。
その後姿は、まだ見えなくなるような場所ではないところで、ふっと消えてしまった。
きっと、そうなるだろうと、犬が走り出す前からわかっていた。
指先には、まだ毛の感触と体温が残っている。
左手を握りこみ、更に右手で包み込む。
そうすれば、この温もりを逃さなくて済むように思えた。
あの犬の行き着くところを、自分は多分知っている。
帰ってきた犬を、大事に抱きしめる者が誰なのかは、きっと乾が知っているはずだ。
手塚はゆっくりと立ち上がり、膝に付いた土も払わずに、出口に向かって歩き出した。
左手はぎゅっと握ったままだ。
この温もりを、乾に届けるまで、決して開かずにおこうと決めた。
手塚の頬を掠める風に、ほんの僅かだか、桜の花の香りが混じっていた。
2008.07.19
同棲大学生乾塚。溺れる回・遊・魚さまの魔界シリーズとシンクロしてます。
Canis lupusは、「タイリクオオカミ」の学名。イエイヌ(いわゆる犬)も、亜種のひとつ。