Canis lupusオマケ

植物園を出たときには、閉園ぎりぎりの時間になっていた。
そんなに長い時間を過ごしていた気がしない。
夢を見ていたような、不思議な感覚だった。

走っていく犬の後姿を見送ったとき、心からほっとした。
同時に、ほんの僅かだが寂しさも感じていた。
もう少しだけ、一緒に居たかったのかもしれない。
多分、二度と会えないとわかっていたから。
握ったままの左手には、柔らかい舌の感触が残っていた。

五時近い時間だが、まだまだ外は暑い。
園内は、特別涼しかったのだと、今わかった。
それでも、風があるから今日は過ごしやすい方だろう。
植物園から抜けてくる風は、どこか緑の匂いがした。

電車に乗る気は、端からない。
ゆっくり歩いて帰っても、乾の帰宅よりも前にアパートに着くだろう。
今見てきたことを、もう一度振り返るのに、ちょうどいい時間だだ。
植物園を背にして、手塚は意識してゆっくりと歩き出した。

その人影に気づくまで、あまり時間はかからなかった。
今かけているのは、それほど強い度は入っていない。
顔は判別できる距離ではなかったが、あの特徴的な細長いシルエットを、手塚が見間違えるはずもなかった。
歩く速度を変えないように、気をつけた。
向こうも同じことを考えているのか。
急ぐ様子は見えなかった。

「迎えに来たよ」
普通に話しても声が聞こえるところまで近づいてから、乾は軽く手を挙げた。
濃い青のシャツの襟が、風で持ち上がっている。
「どうして」
「ここがわかったかって?」
手塚の言いたいことを先回りして、乾はにやりと笑った。

「勘だよ」
乾は、手塚の一メートルくらい手前で立ち止まった。
「なんとなく、そんな気がしたんだ」
乾の目は、手塚ではなく、植物園に向けられていた。

中学の頃から集めたデータの量。
共に暮らす日々。
そこから、手塚の行動を予測することは、乾には難しくないのかもしれない。
だけど、行き先を知ったところで、どのタイミングで、どの道を通るかまで、計算でわかるものなのか。
植物園の入り口で待ち構えていたのならともかく、今こうして会えたのは、理屈で説明できることではないのかもしれない。

乾は、手塚の隣まで歩いてくると、帰ろうと言いたげに微笑んだ。
言葉では返事をせずに、歩き出すことで答えた。
「何か、見た?」
あの場所で、という意味だと手塚は理解した。

「犬」
「え?犬?」
「ああ。あの桜の木の下に、犬がいた」
乾は意外そうな表情をしていたが、特に驚いてはいなかった。

「白と黒が混じったような毛の、ちょっと変わった犬だったな」
手塚は、自分がさっき見たものを、歩きながら話して聞かせた。
乾は相槌を打つこともなく、黙ってそれを聞いていた。
そして、手塚が話し終えたのを確かめてから、静かに口を開いた。

「それ、犬じゃなくて、狼の子どもじゃないかな」
「やっぱり、そうか」
「うん。きっとね」
隣の乾を見上げると、レンズの向こう側で黒い目が細くなっていた。

「いつか見た夢の通りだとしたら、多分、それは俺なんだろう」
「そう、か。そうだな」
もしかしたら、とは思った。
だが、あの風変わりな犬にしか見えない生き物が、乾と同じだと、簡単には結びつかなかった。

でも、今ならわかる。
あの小さな命に、胸が痛くなるほど、惹かれた理由。
初めて出遭ったはずなのに、愛しくてしかたなかった。
あれがどこか別の世界にいる乾なら、戻る場所はきっともう一人の自分の元なのだろう。
今頃、もう一人の自分は、帰ってきた小さな乾を抱きしめているかもしれない。
手塚には出来なかったことを、別の手塚がやってくれているのなら、それでいい。

「手塚」
「なんだ?」
「その手」
乾は軽く首を傾げて、不自然に握ったままの手塚の左手を指差した。
「どうして、ずっと握ったままなんだ?」

「ああ、これか」
ちらりと横目で伺うと、口調は冷静でも好奇心を隠し切れないのか、乾の口元が綻んでいた。
「家に帰ったら、お前にも分けてやる」
「なに、それ」
「今は、『待て』だ」

乾は、わざとらしく肩を落とし、いかにもがっかりしたというふりをする。
だが、すぐに顔を上げて、ふっと微笑んだ。
「ご主人様の言うことには従います」
「いい子だ」
自然に口に出た言葉だが、なんだか、ずっと前にも同じ台詞を言ったことがあるような気がした。

2008.07.25

狼だろうと、わんこだろうと、手塚には同じなんだと思います。