in a box
思い切りよく開け放した窓から、湿気の少ないさらさらした風が吹き込んできた。揺れるカーテンの白と、澄み渡った空の青。
清々しい二色のコントラストが、目に眩しい。
今日は朝から素晴らしい晴天で、眠っているのがもったいなくて、つい早起きしてしまった。
マンションで暮らしていた頃は、休みの日は昼近くまで寝ていることも多かったのに、自分でも驚く変化だ。
初秋の今頃は、暑すぎず寒すぎず、とても過ごしやすい時期だ。
周りに高い建物がないせいなのか、家中風通しが良いので、なおそう感じるのかもしれない。
昔は、真夏や真冬のように、きっぱりわかりやすい季節が好きだった。
特にテニスボールを夢中で追いかけていた頃は、一年中夏でもいいと思っていたくらいだ。
だが、ここに越してきてから過ごしたどの季節も、それぞれ等しく好きになった。
季節の変わり目の半端な時期にも、ちゃんと趣があり、退屈する間もなければ、不快に感じることもなかった。
長く外国で暮らしていた手塚が、プロを引退後、この国で暮らしたいと考えたのは自然なことだと思う。
澄んだ青い空を存分に眺めてから、乾は全開にしていた窓を、半分くらいに閉めた。
南向きの小さな庭と、それが見える濡れ縁のある部屋が、この家の中で一番手塚が気に入っている場所だ。
自分の部屋にいなければ、ほぼ間違いなくそこにいる。
今日も朝食は一緒だったが、その後はそれぞれが好きに過ごしていた。
きっと、手塚は自分の用事をさっさと済まし、すぐにお気に入りの場所に移動しているだろう。
勝手に二人分のコーヒーを用意して、襖を開けると、予想通りに手塚が座卓に向かって本を読んでいた。
「手塚。コーヒー淹れたんだけど飲まないか」
「ああ、ありがとう。頂く」
手塚は読みかけの本を閉じ、きちんと正座しなおす。
飲んだり食べたりするときは、足を崩さないというのが、身体に染み付いているらしい。
こういう男が、長く外国で暮らしていたのかと思うと、少しおかしい。
座卓の上に、コーヒーカップをふたつおいて、乾もその場に座る。
庭からは、柔らかい日差しが差し込み、とても暖かい。
手塚の隣では、遊びつかれた黒い子犬が丸い腹を上下させ、すやすやと眠っている。
この時期の子犬は寝るのが仕事みたいなものだ。
遊んだり食べたりするのと同じくらいに、眠るのも一生懸命。
手塚は、あどけない姿に時々視線を向けては、頬を緩ませている。
その気持ちは良くわかる。
「旨いな」
手塚は厚手のコーヒーカップをじっと見つめながら呟いた。
「ありがとう。やっと自分で旨く淹れられるようになってきたよ」
ここに越してくるまで、いつもコーヒーメーカーを使って淹れていた。
わざわざ湯を沸かす手間もないし、失敗がないのがいいと思っていた。
本当に旨いコーヒーが飲みたければ、プロに任せるというのがモットーだった。
不思議なもので、この古い家で暮らし始めてから、少しずつだけれど、便利な電化製品に頼らないようになってきた。
今日のコーヒーは、淹れる直前に手動のミルで豆を挽き、薬缶で沸かした湯を自分でドリップしたものだ。
手間隙をかけた分、やっぱりコーヒーメーカーで落としたものよりは美味しく感じる。
われながら単純だ。
住む場所が変わり、同居人ができ、人間以外の生き物と暮らす。
一年足らずの間に、大きな変化があった。
全部が始めての経験だ。
だが、それは高校を卒業して実家を出たときや、就職をして完全にひとり立ちしたときと大差はないと思っている。
自分の中の変化は、もっとゆっくりと訪れた。
乾は、目の前にいる男の顔を、じっと眺めた。
この数ヶ月で自分を変えた一番大きな要因は、手塚にあると自分では思っている。
恐らくそれは、思い込みだけではなくて、仮に第三者に判断をあおいでも、同じ答えが返ってくるはずだ。
もっとも、ここでの生活を知っている人間は、互いの他にはいないけれど。
手塚とは、生活のすべてを共有しているわけではない。
基本的に互いのやることに、口出しはせず、やりたいようにやる。
かといって、ただ寝る場所を提供しているのでもない。
同じ屋根の下にいるのが、あの手塚国光であることは、常に意識している。
この距離感は、乾には新鮮だった。
手塚の存在感は常に特別で、中学生のときには既に備わっていた。
生まれながらにして、人の上に立つ人間なのだろうと、子どもなりに感じていた。
プロを引退して、ただ穏やかに暮らすだけの毎日の中でも、それは変わらない。
決し手塚の方から立ち入ることはないが、持っている引力は恐ろしく強い。
昔から惹かれていたのは事実だけれど、感傷や思い出だけで、手塚に構っているわけじゃない。
抗えない何かを手塚は今でも確かに持っていて、それが何かを知りたかった。
少しずつ見えてきた、その「何か」を前に、乾は自分がどうしたいのかをずっと考えていた。
「手塚」
「なんだ」
カップを左手に持ったまま、手塚は顔を上げた。
こんな穏やかな表情で見つめられる日が来ることを、想像できなかった。
今、自分はどんな顔で手塚を見ているのか、少し気になる。
「手塚は、箱と言ったら、何を連想する?」
「どういう意味だ」
「どうもこうもない。箱で連想するものを聞いてるだけ」」
手塚は不思議そうな顔でわずかに首を傾げたが、すぐにもとの表情に戻る。
細かいことはどうでもいいのだろう。
「箱と言えば、か」
手塚は少し考える素振りを見せ、やがてゆっくりと口を開いた。
「箱庭かな」
「ああ、なるほど。そんなのもあったな」
これは、乾にはない発想だった。
「手塚は本物の箱庭を見たことがあるのか」
「ある。家にもあった。特に祖父が盆景を好んで集めていたんだ」
手塚の実家には何度か行ったことがある。
確かに、あの家なら箱庭があってもおかしくはない。
「お前は、何を連想したんだ」
「俺は、パンドラの箱」
今度は手塚が、なるほどと小さな声で呟いた。
「最後に残ったのは、希望だったか」
「諸説あるな。絶望とか予兆とかね」
「そうなのか」
「俺は予兆であってほしいと思っているけどね」
「お前らしいな」
手塚は軽く笑って、コーヒーカップを傾けた。
「ところで」
「ん?」
手塚はカップをテーブルに置き、まっすぐに乾に視線を向けた。
「これは心理テストか何かか?」
「いや、別にそんなんじゃない」
「じゃあなんだ」
「ただの質問だよ。他意はない」
少しの間、何か言いたそうな顔をしていたが、それ以上手塚が追求することはなかった。
無言のまま、いつの間にか空になったカップを手の中で遊ばせていた。
そのうち、ふと思い出したように、再び手塚が口を開いた。
「そういえば、家も箱みたいなものだな」
ぐるりと天井を見回す手塚に釣られ、乾も同じようにする。
「うん。そうだな」
板と柱と梁で組み上げられたこの部屋は、手塚の言う通り、四角い箱だ。
「この家だと、木で出来た箱ってところか」
乾がそう言うと、手塚はしっかりと頷いた。
「ああ。大切に使い込まれて、いい風合になった箱だ」
確かに柱一本だけを見ても、人の手が触れることで、長い時間にうちに自然と角が取れ、なんとも言えない艶が出ている。
確かに、鉄やコンクリートでは、こうはならない。
「乾」
「なんだ」
「俺はここでの生活が、とても気に入っている」
手塚は視線をゆっくりと外へと向けた。
見つめる先にあるのは、柔らかい秋の陽を受けた庭がある。
「そうか。それは嬉しいな」
「お前は?」
「俺も、毎日楽しいよ」
「じゃあ、当分出て行かなくても構わないか」
「好きなだけいていいと言ったはずだけど」
「再確認しておきたかったんだ」
もう一度、乾の方を向き直り、手塚は静かに微笑んだ。
「そうか」
嬉しいとか、楽しいとか、そんなシンプルな言葉で自分の感情を語るのは、ずいぶん久しぶりの気がした。
以前の自分なら、気恥ずかしくて口に出せなかったかろう。
これも、変化のひとつなのかもしれない。
きっとそうだ。
この数ヶ月で、沢山のことを知った。
例えば、季節はある日突然終わるのではなく、日々少しずつ移り変わること。
余計な音も光もない、深く静かな夜の長さ。
小さな生き物が与えてくれる心地よい温もりと愛しさ。
単純で些細な出来事に、幾度も心がふるえた。
ここ以外で、それを味わうことはできなかった。
ともに暮らすのが手塚じゃなかったら、こんな風には感じなかったかもしれない。
それを分かち合うのが、手塚で良かったと、心の底から思う。
でも、そう手塚に伝えるには、もう少し時間が必要だろう。
「乾」
「ん?」
「俺はお前を」
手塚は、そこで言葉を切り、くすっと小さく笑って下を向いた。
「やめた」
「なんだ?言えないことなのか?」
「想像に任せる」
「ふーん。そんなことを言うと、俺の都合のいいように想像するぞ」
「ご自由に」
手塚が笑うと同時に、傍らの子犬が目を覚ましたようだ。
ふるふると頭を振って、黒い犬が立ち上がった。
その頭を手塚が優しく撫でる。
乾も一緒に、微笑んでいるのを、手塚は気づいているだろうか。
「手塚。コーヒーのおかわりはいらないか」
「貰おう」
「じゃあ、淹れてくる」
空いたカップを持ち、台所へと向かう。
襖を開けてから、ひとりと一匹を振り返って見た。
この箱の中は、暖かいものが満ちているのだと思った。
2009.03.22
「山のふもとで犬と暮らしている」「山のふもとで、まだ犬と暮らしている。」の続き。
不器用なくらいにゆっくり時間をかけて結ばれる二人もいいなあ。