山のふもとで犬と暮らしている

長いこと音沙汰の無かった手塚から、突然のメールが送られてきた。

携帯電話の画面に表示された名前を見たとき、一瞬、誰かの悪戯かとも思った。
だけど、「元気か」という言葉で始まるその文章を目で追っているうちに、自然と手塚の顔が浮かんできた。
素っ気無いけれど、正確な文法の生真面目なメール。
間違っても絵文字なんかは、使わない。
こんな文章を書くのは、手塚だけだ。

今年の頭に、いきなり手塚が現役を退くと発表したときは、ものすごく驚いた。
前年の秋に26歳になったばかりで、テニスプレイヤーとしては、まだまだ引退するような年齢じゃない。
だが、学生時代から引き摺っていた肩と肘の故障は、プロになっても手塚を苦しめ続けていたらしい。
限界まで耐えた肩と肘では今後、自分が納得できるプレイを続けるのは無理だと判断しての引退だった。
わずか10年程のプロ生活ではあったけれど、手塚の成績は『日本人選手として』ということ抜きで、立派だったと思う。
彼と中学時代の三年間、ともにテニスをしていたことを、僕はずっと誇りにしてきたし、これからもそうするつもりだ。

引退した手塚は、すぐには日本に帰国しなかった。
現役時代からマスコミ嫌いで有名だった手塚のことだ。
引退後の身の振り方を、あれこれと日本のマスコミに詮索されたくなかったのだろう。
ご家族にも当分は戻らないと伝えたらしい。
きっとほとぼりが冷めてから帰って来るのだろうと、僕たちは安直に考えていた。

でも、そこでぱたりと手塚との連絡が途切れてしまった。
現役時代には、そう頻繁ではないにしても、こちらからメールや手紙を送れば、短いながら返事をくれた。
なのに、向こうからは何も言ってこなくなり、こちらからは郵便も電話もメールも全部が不通になった。
大石が随分心配して、色々と手を尽くしたが、どうやっても手塚の消息を知ることは出来なかったようだ。

もちろん、手塚のご家族には、息子からの定期的な連絡はあったらしい。
だが、口止めをしているのか、もしくは本当に詳細な住所伝えてなかったのかわからないが、ご両親からは連絡先を聞き出せなかった。
手塚と仲の良かった大石はショックを受けていたようだけれど、僕は、そのうち何かいってくるだろうと楽天的な予想をしていた。

その判断は、あながち間違ってはいなかったらしい。
突然のメールからは、少なくとも手塚は健康であり、静かに暮らしていることが伺えた。
長い付き合いの友人としては、それだけわかれば、とりあえずは安心だ。
こうやって、メールを出そうと思いつく程度には覚えてくれていたことも含めて。

驚いたことに手塚からのメールには、画像が添付されていた。
珍しいこともあるものだ。
以前の手塚は、用件のみを箇条書きするようなメールばかりだったのに。
よほど、僕にその画像を見せたかったのだろう。

添付画像は、恐らくデジタルカメラで撮影したと思われる黒い犬の写真だった。
まだ子犬と呼んでいいくらいの大きさの、真っ黒なラブラドールレトリーバーだ。
あどけない顔でカメラを見つめている。
真っ黒な瞳と垂れた耳が、とてもかわいらしい。

メールにも犬と暮らしていることが、ちゃんと書いてあった。
小さな生き物との暮らしは想像以上に気を使うこと。
子犬がどれだけやんちゃで目を離せないかということ。
毎日の散歩が日課になってしまったこと。
どれも簡単な文章だけれど、子犬のことが可愛くて仕方ないという感じ、しっかりと伝わってきた。

僕は手塚からのメールを三回ほど読み返した。
このメールには、いくつかのフェイクが仕掛けられていると、僕は思った。
恐らくミスリードを誘うために、わざとそうしたのだろう。

メールでは、山が見える静かなところに住んでいることを匂わせているが、具体的に場所を特定できるような表現はひとつもない。
だが、手塚なら、きっと長く住んだヨーロッパにいるだろうと想像させる。
そして、犬の世話は全部自分自身でしているような表現を使い、一人で暮らしていることを強調しているように思う。
でも、それがかえって怪しい。
なぜなら、そうではないと思えるヒントが、添付画像の中にちゃんとあるからだ。

多分、じっとしない子犬を抑えている人間が必要だったのだろう。
犬を背後から抱きかかえる腕には、黒い時計がちらりと映りこんでいた。
しかも腕時計を嵌めているは、左の手首だ。

左利きの人間が必ずしも逆側の腕に時計を嵌めるとは限らない。
だが、手塚は違う。
必ず右の手首に時計を嵌める。
だから、これは手塚以外の、右利きの人間だろう。

メールには周到にフェイクをかませてあるのに、なぜこんな画像を添付したのだろうか。
腕時計が映りこんでいることに本人が気づいていないのか。
それとも、誰もそこまで深く気に留めないと思ったのか。
逆に、わざと『誰か』が近くにいるのを、暗に知らせたかったのか。
どっちにしても、手塚が一人が考えたことではないような気がする。

実は、メール以外では連絡が取れなくなった古い友人が、手塚の他にもう一人いる。
手塚が彼のテニス人生の中で、ただ一度だけダブルスを組んだ人間だ。
その友人が、手塚の引退後まもなく連絡が取れなくなったのは、ただの偶然だろうか。

さて。
僕は、どんな返事を手塚に書くべきなのか。
出だしの言葉は「元気だよ」でいい。
それに続く文章は、こんなのはどうだろう。


「ところで、乾は元気でやっているのかい?」


これに対してどんなメールが返ってくるのか、とても楽しみだ。

2008.09.01

不二様視点乾塚。タイトルは、RCの古い名曲から。

乾と手塚が、誰にも内緒で、こっそり二人で暮らす話を思いついた。そしたら、オマケみたいにこの話も浮かんできました。オマケの方を先に仕上げたのは、ぴったりのタイトルが見つかったから。
本当に名曲だと思う。矢野顕子さんによるアンサーソングも大好きだ。